第一回ジュネーヴ条約
概要
デュナンの本に動かされたジュネーヴの五人が委員会を作り、各国の代表を呼んで話し合いを重ねた。1864年8月、十二か国が条約に署名する。戦場の傷病兵は、どちらの国の兵であっても収容して手当てする。野戦病院とそこで働く者は攻撃しない。そのしるしとして、白地に赤い十字を掲げる。わずか十条の取り決めだった。戦争そのものは禁じていない。戦争をする国どうしが、戦争の最中にも守る決まりを、戦争の前に約束したのは、これが初めてである。
場所
46.20°N 6.14°E · スイス(CERN・国際機関)
本文
1859年6月、北イタリアのソルフェリーノで、フランス・サルデーニャ連合軍とオーストリア軍がぶつかった。一日の戦いで、死傷者は四万人近くにのぼった。たまたま居合わせたジュネーヴの実業家アンリ・デュナンは、近くの町の教会に運び込まれ、手当てもされずに放置された負傷兵たちの間を歩き回り、住民の女性たちと水や包帯を配った。手当てを手伝う町の女性たちは、敵の兵にも分け隔てなく水を運び、みな兄弟だ、と口にしたと彼は書いている。三年後、デュナンはこの体験を一冊の本にまとめ、自費で出版した(『ソルフェリーノの思い出』)。本の最後で彼は二つのことを訴えた。平時から各国に、戦場の負傷者を助ける志願者の団体を作っておくこと。そして、その活動を国どうしの取り決めで守ること。
本はヨーロッパの王侯や軍人のあいだで評判になった。1863年2月、ジュネーヴの公益協会は、この提案を形にするための委員会を作った。会長の法律家ギュスターヴ・モワニエ、スイス軍の将軍で、国内の内戦を短期間に、少ない犠牲で収めたことで知られたギヨーム=アンリ・デュフール、二人の医師ルイ・アッピアとテオドール・モノワール、そしてデュナンの五人である。この委員会が、のちの赤十字国際委員会になる。理想を掲げたのはデュナンだったが、各国との交渉という地道な実務を動かしたのは、モワニエだった。

1863年10月、委員会はジュネーヴに会議を招いた。十四の国の政府から代表が来て、そのほかの者も加わった。会議は、各国に負傷兵を救護する団体を作ること、救護する者は白地に赤い十字の腕章を付けること、そして各国の政府にその者たちを守るよう求めることを決めた。しかしこれは「求める」だけで、国を縛る力はない。国を縛るには条約が要った。
1864年8月、スイス政府が外交会議を開き、十六の国が代表を送った。8月22日、そのうち十二か国が条約に署名した。条文はわずか十条である。野戦病院と救護所は、傷病兵がいるかぎり中立とし、攻撃しない。そこで働く医師や看護する者、負傷者を運ぶ者も中立とし、敵に捕らえられても捕虜にせず、帰す。傷病兵は、どちらの国の兵であっても収容して手当てする。負傷者の手当てに協力した住民も守る。そして、そのしるしとして、白地に赤い十字の旗と腕章を用いる。

この条約は、戦争そのものを禁じてはいない。会議に集まった人々も、それは分かっていた。戦争を禁じようとすれば、どの国も署名しない。その代わりに、戦争をする国どうしが、戦争の最中にも守る決まりを、戦争が始まる前に約束した。これが初めてだった。それまでも戦場での慣わしや、戦いのたびに将軍どうしが交わす取り決めはあったが、その場かぎりで、戦争が終われば消えた。
赤い十字のしるしは、スイスの国旗の色を入れ替えたものと説明される。ただ、1864年の会議の記録にはそうはっきり書かれておらず、この説明が条約の文に現れるのは、のちの1906年の改定のときである。しるしの意味は、後から与えられた面もあった。
条約はすぐに試された。1866年、プロイセンとオーストリアが戦ったとき、プロイセンは条約に加わっていたが、オーストリアはまだだった。オーストリアは戦いに大敗した直後に加わった。1870年の普仏戦争では、両国とも加わっていたが、赤十字の腕章を付けた者が撃たれたという訴えが双方から出され、勝手に腕章を付けて身を守ろうとする者も現れた。条約には、違反を裁く場も、守らせる力もない。あるのは、守らなかったことが世の中に知られるという圧力だけだった。
傷病兵の世話は本来、それぞれの国の軍が責任を持つべきものだ、という批判もあった。クリミア戦争で野戦病院を立て直したフローレンス・ナイチンゲールは、民間の団体に任せれば国が自らの責任を軽く見るようになると、当初は懐疑的だったと伝えられる。それでも、各国に救護の団体が次々に生まれ、戦争のたびに活動を広げていった。デュナン自身は事業に失敗して1867年にジュネーヴを去り、長く貧しい暮らしを送ったが、1901年、最初のノーベル平和賞を受けた。
条約はヨーロッパの外にも広がった。日本では、1877年の西南戦争のさなかに、元老院議官の佐野常民らが敵味方の区別なく負傷者を救う団体を作った(博愛社)。日本政府は1886年に条約に加わり、翌年、この団体は日本赤十字社と名を改めた。
条約は、その後も書き直されては広がっていった。海の上の傷病兵や難船者、そして捕虜の扱いが加わり(捕虜の消息を集める)、第二次世界大戦のあとの1949年には、占領地に暮らす一般の住民を守る条約も作られた。いまジュネーヴ諸条約には世界のほぼすべての国が加わっており、その数は国際連合の加盟国より多い。
しるしは、遠くからでも「撃つな」と分かるものでなければならない。だが、しるしはただの色と形であり、見る側がそこに何を思い浮かべるかまでは決められない。十字の形が、ある人々には別の意味を帯びて見えることが、十二年後に問題になる(赤い新月)。