ハイチ革命

概要
奴隷が蜂起して独立を勝ち取った、史上唯一の例。人権の理念を掲げた本国が、それを植民地に認めなかった矛盾を突いた。
場所
18.59°N -72.31°E · ハイチ
関わった人(1)
トゥサン・ルヴェルチュールAD1743年頃–AD1803年4月7日 · 率いた本文
奴隷が蜂起して、独立を勝ち取った。人類の歴史で、それが国家の誕生にまで行き着いた例はこれしかない。
舞台はイスパニョーラ島の西の三分の一、フランス領サン=ドマングである。18世紀の終わり、ここはフランスの植民地のなかで最も豊かな土地だった。世界の砂糖の3〜4割、コーヒーの半分前後をここが産したとされる。ボルドーやナントの港町の繁栄は、この島から来る船に支えられていた。
その富を生んだのが、約50万人の奴隷である。白人はおよそ3万、自由な有色人(混血や解放奴隷の子孫)も3万ほどで、奴隷は住民の9割近くを占めた。サトウキビの刈り入れと製糖は過酷で、死亡率が高く、出生では数が保てなかった。足りない分はアフリカから運ばれ続けた。1780年代には年に3万人前後が連れてこられたとされる。奴隷の多くはアフリカ生まれで、大西洋奴隷貿易の終着点の一つがここだった。仕組みの全体はカリブの砂糖プランテーションに詳しい。

1789年、本国でフランス革命が起きる。人権宣言は「人は自由で権利において平等なものとして生まれる」とうたった。だが、パリの議会は植民地の奴隷制に手をつけなかった。植民地の利益を代表する議員たちが強く抵抗し、「人」に奴隷を数えるかどうかは棚上げにされた。最初に権利を求めて動いたのは自由な有色人で、1790年にはその指導者オジェが反乱を起こし、捕らえられて車裂きの刑で殺されている。
1791年8月22日の夜、北部の平野で奴隷たちが一斉に蜂起した。直前にボワ・カイマン(ワニの森)でヴードゥーの儀式が開かれ、司祭ブークマンが決起を呼びかけたと伝えられる。ただ、その場面の細部は後の語りで膨らんだ部分も多いとされる。数週間で千を超える農園が焼かれ、数百の白人農園主が殺された。報復で殺された黒人はその何倍にもなる。

初めの指導者たちは、必ずしも奴隷制の廃止を掲げていなかった。条件をつけて交渉に応じる動きもあった。ここで頭角を現すのがトゥサン・ルヴェルチュールである。奴隷として生まれ、蜂起のころにはすでに解放されていた。読み書きができ、馬の扱いに長け、40代の半ばで反乱軍に加わった。
戦いは三つどもえ、四つどもえになる。1793年、フランスは革命戦争でイギリス・スペインと開戦した。島の東半分を持つスペインは反乱軍を雇い、トゥサンもいったんスペイン側で戦った。イギリスはジャマイカから兵を送り、白人農園主の一部はこれを歓迎した。追い詰められたフランスの派遣委員ソントナは、1793年8月、北部の奴隷の解放を宣言する。翌1794年2月、パリの国民公会が全植民地での奴隷制の廃止を決めた。反乱が本国の決定を引き出した形になる。

トゥサンはこの年、フランス側に移り、スペイン軍を、続いてイギリス軍を相手に戦った。イギリスは5年で島から引き揚げたが、その間に失った兵の多くは戦闘ではなく黄熱病で死んでいる。1801年、トゥサンは自ら憲法を定め、終身の総督を名乗った。フランスへの帰属は否定しなかったが、事実上の独立に近い。一方で、経済を立て直すため、解放された元奴隷を農園に戻して働かせる厳しい労働規則も敷いた。自由と砂糖の両立は、彼にとっても難題だった。
本国ではナポレオン・ボナパルトが権力を握っていた。1802年、義弟ルクレールの率いる遠征軍が島に上陸する。兵は2万を超えたとされる。トゥサンは交渉の場に誘い出されて捕らえられ、フランスへ送られた。ジュラ山中のジュー要塞に閉じ込められ、1803年4月に獄死する。

だが、そこで終わらなかった。同じ1802年、フランスはグアドループで奴隷制を復活させた。その知らせが届くと、いったん降伏していた黒人の将軍たちが再び武器を取った。率いたのはデサリーヌである。遠征軍は黄熱病で次々に倒れ、ルクレール自身もその年の11月に死んだ。後任のロシャンボーは残虐な鎮圧で知られ、かえって抵抗を固めた。1803年11月、ヴェルティエールの戦いで決着がつき、フランス軍は島を去った。
1804年1月1日、デサリーヌは独立を宣言した。国の名は、先住民タイノの言葉で「山の多い土地」を意味するとされる「ハイチ」とした。ラテンアメリカで最初の独立国であり、アメリカ合衆国に次いで南北アメリカで二番目の独立国になる。独立の直後、デサリーヌは島に残った白人の多くを殺させた。この虐殺は、ハイチを恐れる理由として周囲の奴隷制社会で長く語られることになる。

影響は島の外に及んだ。サン=ドマングを失ったナポレオンは、北米の拠点としての意味が薄れたルイジアナを1803年にアメリカへ売った。島から逃れた農園主たちはキューバやニューオーリンズへ移り、砂糖とコーヒーの産地がそちらへ動いた。のちにシモン・ボリバルは、亡命中にハイチの大統領ペシオンから武器と兵の援助を受けている。条件は、解放した土地で奴隷を自由にすることだった。
一方で、新しい国は孤立した。奴隷を持つ国々は、奴隷の反乱が成功した国を認めたがらなかった。アメリカ合衆国がハイチを承認したのは、南北戦争中の1862年である。

最も重い代償は、独立の承認と引き換えの賠償金だった。1825年、フランス国王シャルル10世は軍艦を送り、旧植民者の財産の補償として1億5千万フランを求めた。のちに9千万フランに減らされたが、ハイチはその支払いのためにフランスの銀行から借金をし、その利子をまた払うことになった。借り換えを含めた返済が終わったのは1947年とされる。奴隷にされていた人々が、自分の身体の「代金」を払わされた形になる。
この賠償がハイチの貧困にどれほど効いたのかは、計算の仕方によって見積もりが大きく違う。ただ、建国から一世紀以上、国家の収入の大きな部分が外へ出ていったことは確かである。人権をうたった国が、その人権を求めた人々に請求書を送った。ハイチ革命は、近代の自由の理念がどこまでを「人」に数えていたのかを、最も鋭い形で問うた出来事だった。