シチリアの晩祷
概要
復活祭の月曜、パレルモの教会の前でフランス兵が女に触れた。晩祷の鐘で、街のフランス人が全部殺された。6週間で島中。シャルル・ダンジューは島を失い、アラゴンが取った。20年の戦争。ビザンツの皇帝が金を出していた。「シチリアの晩祷」はそれ以来、外国支配への一斉蜂起の名。
場所
38.12°N 13.36°E · イタリア・シチリア州
本文
13世紀のシチリア島は、ヨーロッパでもっとも豊かな土地の一つだった。ノルマン人の王国(ノルマンのパレルモ征服)はやがてドイツのシュタウフェン家に受け継がれ、皇帝フリードリヒ2世はパレルモで育った。だが、皇帝と争った教皇は、その一族を南イタリアから追い出そうとして、フランス王ルイ9世の弟、アンジュー伯シャルルを呼び込んだ。1266年、シャルルはベネヴェントの戦いでフリードリヒ2世の子マンフレーディを討ち、1268年にはタリアコッツォの戦いで、皇帝の孫で16歳のコンラディンを破って捕らえ、ナポリの広場で首をはねた。
シャルルはシチリアと南イタリアの王になったが、都をナポリに置き、シチリアにはフランス人の役人と兵を送り込んだ。重い税が取り立てられ、土地はフランスの騎士たちに分け与えられた。シャルルの狙いはさらに東にあった。1261年にギリシア人の手に戻ったコンスタンティノープルを奪い、ラテン帝国を立て直すことである(第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪)。1281年、彼はヴェネツィアと教皇の支持を取りつけ、大艦隊の準備を進めていた。シチリアの重税は、その戦費になった。

ビザンツの皇帝ミカエル8世パレオロゴスは、外交で生き延びようとした。シャルルに敵意を持つ者に金を送り、とくにアラゴン王ペドロ3世と結んだ。ペドロの妃コスタンツァはマンフレーディの娘で、彼はシチリアの王位を妻の権利として主張できた。ペドロの宮廷にいたシチリア出身の医師ジョヴァンニ・ダ・プローチダが、ビザンツとアラゴンとシチリアの貴族のあいだを行き来して蜂起を仕組んだ、という話がのちに広まった。どこまでが本当かは分からず、多くは伝説とされる。
1282年3月30日、復活祭の翌日の月曜、パレルモの城壁の外にある聖霊教会の前には、夕べの祈り(晩祷)を待つ人々が集まっていた。そこへフランス兵の一団がやってきた。ドルーエという兵が、武器を隠していないか調べると言って、一人の若い人妻の体に手をかけた。夫が短剣で兵を刺し、それをきっかけに、群衆はフランス兵に襲いかかった。晩祷の鐘が鳴るなか、騒ぎは町へ広がり、「フランス人に死を」という叫びとともに、町じゅうのフランス人が狩り出された。修道院の修道士も、シチリア人と結婚した女も容赦されなかった。その夜のうちに2000人ほどが殺されたといわれる。疑わしい者には、ひよこ豆を意味する「チチェリ」という言葉を言わせ、フランス風の発音になった者を殺した、という話も伝わるが、これも後世の伝えとされる。

パレルモの人々は自治の共和国を名のり、教皇の保護を求めたが、フランス出身の教皇マルティヌス4世はこれを退けた。蜂起は島中に広がり、4月28日にはシャルルの艦隊が泊まっていたメッシーナも立ち上がって、船を焼いた。8月、待ち構えていたかのようにアラゴン王ペドロ3世が島の西のトラーパニに上陸し、9月、パレルモでシチリア王として迎えられた。シャルルはメッシーナを囲んだが落とせず、本土へ退いた。ペドロとシャルルは、1283年にボルドーで100人ずつの騎士を連れて決闘をすることにしたが、二人とも時刻をずらして現れ、相手が来なかったと言い合って終わった。
戦いは「晩祷戦争」と呼ばれ、20年続いた。1302年のカルタベッロッタの和約で、シチリア島はアラゴン家の王が、ナポリを中心とする南イタリアの本土はアンジュー家が治めることになった。二つの国がともに「シチリア王国」を名のったことが、のちの「両シチリア」という名のもとになる。15世紀にアラゴン王アルフォンソ5世が両方を手に入れ、二つの土地はその後もスペインやブルボン家の下で一つに扱われ、1861年のイタリアの統一まで続いた。
いちばん得をしたのは、遠くのビザンツだった。シャルルの東方遠征は、この一夜で消えた。ミカエル8世はのちに自伝で、もし私がシチリア人に自由をもたらすための神の道具だったと言うなら、それは真実を述べているにすぎない、と書いている。ビザンツ帝国は、それから170年あまり生き延びた(コンスタンティノープル陥落)。

「シチリアの晩祷」という名は、外国の支配に対する民衆の一斉の蜂起を指す言葉になった。19世紀、イタリアの統一運動の時代には、この事件は民族の誇りの物語として語られ、ジュゼッペ・ヴェルディは1855年、パリでオペラ『シチリアの晩祷』を初演した。1958年、イギリスの歴史家ランシマンは、この事件を地中海全体の外交の中に置き直した本を書き、それが今も事件を理解する基本になっている。聖霊教会は、いまはパレルモの墓地の中に建っている。