琉球処分

概要
明治政府は1872年に琉球藩を置き、1875年に清への朝貢を禁じ、1879年、松田道之が警官160人と兵400を連れて首里城に入り、沖縄県を置いた。450年の王国が終わった。尚泰王は東京へ。士族の一部は清へ渡って救援を求め(脱清人)、清は抗議し、1880年の分島案(宮古・八重山を清へ)は流れた。日清戦争で決着した。
場所
26.21°N 127.68°E · 沖縄県
本文
琉球王国は、15世紀に沖縄島を一つにまとめてから(琉球王国の統一)、明の皇帝に朝貢して国王の位を認めてもらう冊封を受け、中国と日本、東南アジアを結ぶ中継の貿易で栄えた。1609年、薩摩の琉球侵攻で薩摩の島津氏に敗れると、奄美の島々を取られ、薩摩に年貢を納めるようになった。それでも王国はつぶされなかった。薩摩は琉球を通じた中国との貿易の利を得たかったため、王国は清(明のあと)への朝貢を続け、表向きは独立の国として振る舞った。清から国王を任命する冊封使が来るときには、那覇にいた薩摩の役人は姿を隠し、日本との関係を見せないように振る舞ったと伝えられる。日本と中国の両方に属するこの形が、およそ270年続いた。
明治維新は、このあいまいさを許さなかった。新政府は国境をはっきり引き、その内側を一つの制度で治める近代国家を作ろうとしていた。1871年の廃藩置県で、琉球は鹿児島県の管轄に入れられた。同じ年の暮れ、宮古島から那覇へ年貢を運んだ帰りの船が台湾に流れ着き、乗っていた人々のうち54人が現地の住民に殺された。

1872年、政府は琉球の国王尚泰を「琉球藩王」とし、華族に列した。琉球の側が望んだことではない。1874年、政府は宮古の島民が殺されたことを理由に台湾出兵を行った。日本は、殺されたのは日本の国民だと主張して清と交渉し、清は出兵を民を守るための行いと認める文言の入った取り決めに応じ、見舞金を払った。日本はこれで清が琉球を日本の領土と認めたと解釈した。清の側にそのつもりはなかった。
1875年、内務省の松田道之が那覇へ来て、清への朝貢と冊封をやめること、明治の年号を使うこと、藩王が東京へ来ることなどを求めた。琉球の王府はこれを拒み、何度も嘆願を繰り返した。1876年には、幸地親方(向徳宏)らが密かに清へ渡り、救いを求めた。このように清へ渡って王国の存続を訴えた士族は、のちに「脱清人」と呼ばれる。

1879年3月、松田は処分官として三度目に那覇へ来た。今度は警官160人あまりと、熊本鎮台の兵およそ400人を連れていた。3月27日、松田は首里城で藩を廃して県を置くことを告げ、城を明け渡すよう命じた。4月4日、沖縄県の設置が布告された。首里城には日本の軍が入り、尚泰は5月の末に那覇を出て東京へ移された。のちに侯爵の位を与えられ、沖縄へ戻ることはほとんど許されなかった。1429年の統一から数えて、450年続いた王国の終わりである。政府はこの一連の措置を自ら「琉球処分」と呼んだ。
県が置かれたあとも、王府の役人だった士族の多くは新しい県庁に従わなかった。仕事を引き継がず、帳簿を渡さず、日本の官吏に協力しないことを血判で誓い合った。県は主だった者を警察で捕らえ、厳しく取り調べて従わせたとされる。初代の県令には、旧佐賀藩主の鍋島直彬が任じられた。士族のなかには、清がいずれ救いに来ると信じて待つ者も多く、やがて日本の統治を拒む「頑固党」と、受け入れて近代化を進めようとする「開化党」に分かれて争った。この対立は、日清戦争で清が敗れるまで続いた。
清はこれに抗議した。ちょうど世界一周の旅の途中で清と日本に立ち寄ったアメリカの前大統領ユリシーズ・グラントが、両国に話し合いを勧めた。1880年、日本は「分島改約案」を出した。沖縄島までを日本に残し、宮古と八重山の島々を清に分ける代わりに、清が日本に、欧米の国と同じ通商上の待遇を認めるという案である。交渉はいったんまとまりかけたが、清の李鴻章らは調印を引き延ばした。宮古と八重山だけでは王国は立ち行かないという琉球の人々の訴えもあった。北京にいた脱清人の林世功は、この案に抗議して1880年に自ら命を絶っている。調印は結局行われず、案は流れた。清が琉球のことを持ち出せなくなったのは、日清戦争で日本に敗れてからである。

県になってからの沖縄で、政府は急な改革を避けた。土地の制度も税も地方の仕組みも、王国のころのまま残す「旧慣温存」をとった。士族の反発を抑えるためだったが、その分、近代の制度から取り残されもした。土地の整理が終わったのは1903年で、衆議院議員の選挙が沖縄で初めて行われたのは1912年、宮古と八重山ではさらに遅れて1919年だった。一方で学校では標準語が教えられ、方言を話した子どもに罰として札を首から下げさせる「方言札」も使われた。暮らしは苦しく、1899年からはハワイ、のちに南米へ多くの人が移民として渡っていった。
琉球処分をどう呼び、どう見るかは、いまも一つに定まらない。政府の用語をそのまま使っている点を問題にする人もいれば、近代の国境が引かれる過程の一つと見る人もいる。王国の側から見れば、それは武力を背景にした併合だった。1945年の沖縄戦では県民の4人に1人が死んだとされ、戦後は1972年の沖縄返還までアメリカの施政下に置かれた。首里城は沖縄戦で焼け、1992年に正殿が復元されたが、2019年10月にまた焼けた。いま再び建て直されている。