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Event / できごと

琉球処分

Ryukyu Disposition
AD1879年4月4日
重要度 5

概要

明治政府は1872年に琉球藩を置き、1875年に清への朝貢を禁じ、1879年、松田道之が警官160人と兵400を連れて首里城に入り、沖縄県を置いた。450年の王国が終わった。尚泰王は東京へ。士族の一部は清へ渡って救援を求め(脱清人)、清は抗議し、1880年の分島案(宮古・八重山を清へ)は流れた。日清戦争で決着した。

場所

那覇
26.21°N 127.68°E · 沖縄県

本文

1871年、廃藩置県。琉球は鹿児島県の管轄に入れられた。同じ年、宮古島の船が台湾に漂着して、乗員54人が現地の人に殺された(宮古島島民遭難事件)。1872年、明治政府は琉球国王尚泰を「琉球藩王」にして華族に列した(琉球の意向を聞かずに)。1874年、台湾出兵。日本は清に対して「琉球は日本の領土で、その島民が殺されたから出兵した」と主張し、清が賠償を認めた(清は琉球の帰属を認めたわけではないと考えたが、日本は認めたと解釈した)。

1875年、内務大丞松田道之が那覇へ。要求。清との冊封・朝貢を止めること。明治の年号を使うこと。藩王が上京すること。鎮台の分営を置くこと。琉球は拒み続けた。清へ密使を送って救援を求めた(幸地朝常=向徳宏ら。「脱清人」)。

1879年3月、松田が3度目に来た。警官160人と熊本鎮台の兵400。3月27日、首里城で「廃藩置県」を布達。4月4日、沖縄県を置くことが公布された。首里城は明け渡され、日本の軍が入った。尚泰王は5月、東京へ。侯爵。450年の王国が終わった。

抵抗。士族の一部は、清へ渡って救援を訴え続けた。1879年、林世功(りん・せいこう、名城春傍)が北京で、清の政府に嘆願書を出して、自刃した。清は抗議し、アメリカの前大統領グラント(世界旅行の途中で日本と清に立ち寄っていた)が調停を勧めた。1880年、日本は「分島改約案」を出した(宮古と八重山を清に譲る代わりに、日本に清国内での通商の最恵国待遇を認める)。清の李鴻章は、琉球の人々が「二島だけでは国は成り立たない」と訴えたこともあって、調印を延ばし、流れた。1894〜95年の日清戦争で、清は琉球について何も言えなくなった。

沖縄県。旧慣温存(土地制度、租税、地方制度を、しばらく琉球のまま残した。1903年まで土地整理が終わらず、衆議院議員選挙が行われたのは1912年)。標準語の励行(方言札)。1899年から、ハワイと南米への移民。

1945年、地上戦。県民の4分の1が死んだ。1972年まで、アメリカの施政下。首里城は1945年に焼け、1992年に復元され、2019年10月31日にまた焼けた。

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