農奴解放令
概要
ロシアの人口の3分の1、2300万人の農奴が、人身の自由を得た。地主の所有でなくなった。土地は、49年の年賦で買い戻す。土地は村(ミール)が持ち、農民は村から出られなかった。「上から与えなければ、下から起きる」とアレクサンドル2世は貴族に言った。買い戻し金は重く、農民は貧しいままで、1905年と1917年に立った。皇帝は1881年に爆弾で殺された。
場所
59.93°N 30.36°E · ロシア
関わった人(1)
アレクサンドル2世AD1818年4月29日–AD1881年3月13日 · 解放した本文
1861年3月3日(ロシアで使われていた暦では2月19日)、皇帝アレクサンドル2世は農奴解放の勅令に署名した。ロシアの人口およそ6000万のうち、地主に属する農奴は2300万人ほどいた。彼らはこの日から、法の上では人として自由になった。売られることも、主人の一存で結婚を決められることもなくなった。だが、自分が耕す土地を手に入れるには、半世紀に近い年賦で代金を払わなければならなかった。
解放の前の農奴は、地主の財産だった。地主は農奴を土地ごと、あるいは人だけを売り買いし、賭け事のかたに手放すこともあった。鞭で打ち、結婚に口を出し、兵役に差し出す者を選んだ。ロシアの文学はこの現実を描き続けた。ゴーゴリの『死せる魂』は、死んだ農奴の名義を買い集める男の物語であり、ツルゲーネフの『猟人日記』は、農奴たちの暮らしと人間らしさを静かに描いて、若き日のアレクサンドルにも影響を与えたと言われる。地主の農奴のほかに、国の土地に住む国有地農民もほぼ同じ数いた。
農奴制をやめるべきだという声は以前からあった。1825年のデカブリストの乱に加わった青年将校たちも、その廃止を求めていた。乱を鎮めて即位したニコライ1世は、農奴制は悪だが、いま手をつければもっと悪いことになる、という趣旨を述べ、委員会で検討を重ねながら、根本には踏み込まなかった。

流れを変えたのは戦争の敗北である。クリミア戦争で、ロシアは自国の領土に攻め込んだイギリスとフランスに敗れた。鉄道も工業も遅れ、徴兵された農奴の兵は旧式の銃で戦った。国が遅れているという事実を、支配層の誰もが突きつけられた。1855年に即位したアレクサンドル2世は、翌1856年、モスクワの貴族たちを前に、農奴制は下から廃止されるのを待つより、上から廃止するほうがよい、と語った。各地で農民の騒ぎが続いており、放っておけば反乱になるという恐れも、皇帝の言葉の裏にあった。
それからの数年、政府と各県の貴族の委員会が案を練った。多くの地主は、農奴を自由にしても土地は渡さず、農民を雇われの働き手にすることを望んだ。政府は、土地を持たない大量の農民が生まれれば、かえって騒乱のもとになると考え、土地付きの解放にこだわった。勅令はその妥協だった。

勅令によって、農奴は「自由な農村住民」の権利を得た。結婚し、商いをし、裁判に訴え、財産を持つことができるようになった。しかし土地は、いったん地主のものとされた。農民は、それまで耕してきた土地のうち「分与地」と呼ばれる部分を、地主から買い戻すことになった。代金はまず政府が地主に立て替えて大部分を払い、農民はそれを49年かけて利子とともに国に返す。これが買戻金である。買い戻しの手続きが済むまで、農民は「一時的義務負担農民」として、以前と同じように地主のために働くか、年貢を納め続けなければならなかった。
条件は農民に厳しかった。土地の値段は、実際の値打ちより高く見積もられたと言われる。地主は農奴を失う埋め合わせを、土地の値段に上乗せしたのである。また、特に土地の肥えた南部の黒土地帯では、農民が受け取った分与地が、解放の前に耕していた土地より小さくなった。切り取られた土地は地主の手に残り、農民はそこを借りるためにまた地主に働かされた。

土地は農民一人ひとりではなく、村の共同体(ミール、あるいはオプシチナ)にまとめて渡された。共同体は畑を定期的に割り替え、税と買戻金をみんなで連帯して払う責任を負った。そのため、農民は共同体の許しなしには村を離れることが難しかった。地主の支配からは解き放たれたが、今度は村に縛られたのである。
勅令の中身が伝わると、農民の多くは失望した。本当の勅令は貴族たちに隠されていて、皇帝は土地をただで与えてくれたはずだ、と信じる者も多かった。各地で騒ぎが起き、1861年4月には、カザン県のベズドナ村で、集まった農民に兵が発砲し、数十人が死んだ。
解放は、一連の大きな改革の幕開けでもあった。1864年には郡や県の地方自治の機関ゼムストヴォが作られ、同じ年の司法改革で、陪審制と公開の裁判が取り入れられた。1874年には、貴族も農民も同じように兵役に就く国民皆兵の制度ができた。これらは合わせて「大改革」と呼ばれる。ほぼ同じ時期、大西洋の向こうではエイブラハム・リンカーンが奴隷解放宣言を出しており、19世紀の半ばは、人を所有する制度が東西で崩れていった時代でもあった。

だが、改革はどちらの側も満足させなかった。地主の多くは土地の代金を借金の返済に使い果たし、没落していった。農民は人口が増えるにつれて土地がますます足りなくなり、重い買戻金に苦しんだ。改革が中途半端だと考える若い知識人たちは、農民の中に入って革命を説き、やがて一部は暗殺に走った。1881年3月、アレクサンドル2世は首都サンクトペテルブルクで、革命組織「人民の意志」の投げた爆弾によって殺された。解放者と呼ばれた皇帝は、解放の不徹底を責める者たちに殺されたのである。
その後も農民の問題は帝国を揺るがし続けた。血の日曜日事件に始まる1905年の革命では、各地の農民が地主の屋敷を焼いた。政府は買戻金を打ち切り、1907年にようやく廃止した。首相ストルイピンは1906年から、農民が共同体を出て自分の土地を持てるようにする改革を進めた(ストルイピンの改革)が、道半ばで暗殺された。1917年のロシア革命で、農民たちは地主の土地を自分たちの手で取り上げた。上からの解放で始まった問題は、56年後、下からの革命で決着がつけられた。