京都議定書

概要
温室効果ガスの削減を、先進国に法的義務として課した最初の条約。2008〜12年に、1990年比で全体5%(EU8%、アメリカ7%、日本6%)。排出量取引とクリーン開発メカニズム。アメリカは署名して批准せず、カナダは2011年に離脱し、中国とインドには義務がなかった。2015年、パリ協定が、全ての国が自分で目標を出す方式に切り替えた。
場所
35.06°N 135.79°E · 京都府
本文
大気中の二酸化炭素が増えていることは、1958年からハワイのマウナロア山で続けられた観測が、はっきりと示していた(キーリング曲線)。濃度は季節ごとに上下しながら、毎年確実に上がっていく。それが地球を暖めるという警告は、1980年代に入ると科学者の世界から政治の場へ持ち込まれた。1988年、各国の科学者が知見をまとめて政府に伝えるための政府間パネル、IPCCが設けられた(IPCCの設立)。1992年、リオデジャネイロの地球サミット(地球サミット)で気候変動枠組条約が採択され、気候に危険な人為的影響を及ぼさない水準で温室効果ガスの濃度を安定させる、という目標が掲げられた。ただし、誰がいつまでにどれだけ減らすかという数字は、どこにも書かれていなかった。
その数字を決めるために開かれたのが、1997年12月1日から京都の国際会館で開かれた条約の第3回締約国会議、COP3である。議長は日本の環境庁長官、大木浩が務め、160を超える国と地域の代表、それに企業や環境団体の関係者、報道陣が京都に集まった。先立つ1987年には、オゾン層を壊すフロンを規制するモントリオール議定書(モントリオール議定書)が成果を上げており、地球規模の環境問題も条約で解決できるという期待があった。

争点は単純で、それゆえに難しかった。誰が、どれだけ、いつまでに減らすのか。欧州連合は、先進国が一律に15パーセント減らすべきだと主張した。アメリカは、1990年の水準に戻すのが精いっぱいだとし、中国やインドなど排出の伸びる途上国にも何らかの義務を求めた。日本はその間を取ろうとした。一方、途上国のグループは、産業革命から200年、大気に二酸化炭素を積み上げてきたのは先進国であり、まず先進国が責任を果たすべきだと主張した。「共通だが差異のある責任」という条約の原則を、どう数字に落とすかが問われた。
交渉の実務を仕切ったのは、全体委員会の議長を務めたアルゼンチンの外交官ラウル・エストラーダ・オユエラだった。会期の終盤にはアメリカのゴア副大統領が京都に乗り込み、代表団に柔軟な対応を指示して、行き詰まった交渉を動かした。会議は予定の10日を過ぎて徹夜の協議にもつれこみ、12月11日の昼前、ようやく議定書が採択された。異論の声が上がる前に、議長が手早く木槌を打って採択を宣言したとも伝えられる。

決まった内容はこうである。先進国と旧社会主義の市場経済移行国、あわせて38か国と欧州共同体は、2008年から2012年の5年間(第1約束期間)の平均排出量を、1990年に比べて全体で少なくとも5.2パーセント減らす。国ごとの目標は差が付けられ、欧州連合は8パーセント、アメリカは7パーセント、日本は6パーセントの削減、ロシアは据え置き、オーストラリアは逆に8パーセントの増加が認められた。対象となるのは二酸化炭素、メタン、一酸化二窒素と、3種類の代替フロンなど、あわせて6種類のガスである。途上国には削減の義務は課されなかった。
数字を達成しやすくするための仕組みも盛り込まれた。目標より多く減らした国が余った排出枠を他の国に売れる排出量取引、先進国どうしが共同で削減事業を行う共同実施、そして先進国が途上国で削減事業に資金や技術を出し、その分を自国の削減に数えられるクリーン開発メカニズムである。森林が吸収する分を差し引くことも認められた。地球全体で減ればどこで減らしても同じだ、という考え方にもとづく、市場の力を使った新しい試みだった。

しかし、肝心のアメリカがつまずいた。京都会議の半年前の1997年7月、アメリカ上院は、途上国に義務を課さず、アメリカ経済に深刻な害を与える条約には同意しないという決議を、95対0の全会一致で可決していた。クリントン政権は1998年に議定書に署名したが、承認を得られる見込みがないとして、上院に送らなかった。2001年3月、ブッシュ政権は議定書から離脱する方針を表明した。当時、アメリカは世界の二酸化炭素の4分の1近くを出す最大の排出国だった。
議定書が効力を持つには、55か国以上が批准し、しかも批准した先進国の1990年の排出量が先進国全体の55パーセント以上になることが条件だった。3割以上を占めるアメリカが抜けたため、17パーセントを占めるロシアの決断が鍵を握った。ロシアは長くためらったが、2004年11月に批准した。欧州連合がロシアの世界貿易機関への加盟を後押しすることと引き換えだったと言われる。2005年2月16日、京都議定書は発効した。
第1約束期間が終わってみると、議定書に加わった先進国は、全体として目標を上回る削減を達成した。だがその大部分は、ソ連崩壊後の旧社会主義国の経済の落ち込みによる「自然減」で、そこに欧州や日本の努力、工場の途上国への移転、2008年の世界金融危機による景気後退が重なった結果だった。そして、その間にも世界全体の排出量は増え続けた。中国は2000年代後半にアメリカを抜いて世界最大の排出国となり、義務のない途上国の排出が、先進国の削減分をはるかに上回って伸びた。カナダは目標の達成が絶望的になり、2011年12月に離脱を表明した。2013年から2020年までの第2約束期間を定めた改正には、日本もロシアもニュージーランドも削減目標を出さなかった。
京都の失敗から、世界は次の設計を学んだ。最大の排出国が加わらない、急増する途上国に義務がない、守れなくても罰が弱い。上から削減量を割り当てる方式では、誰もが納得する数字は作れなかった。2015年12月に採択されたパリ協定は、発想を逆にした。すべての国が自ら削減目標を決めて提出し、5年ごとにそれを引き上げていく。法的な義務は目標の提出と報告であって、達成そのものではない。そのかわり、アメリカも中国もインドも含めた、ほぼすべての国が加わった。世界の気温上昇を産業革命前から2度より十分低く抑え、1.5度を目指すという目標が掲げられた。
京都議定書は、温室効果ガスの削減を国際法上の義務として定めた最初の条約だった。排出量取引の仕組みは欧州などで定着し、国ごとの排出量を測って報告する仕組みも、ここで整えられた。そのうまくいかなかった点も含めて、いまの気候政策の多くは、1997年の京都に出発点を持っている。