できごと

インド国民会議の創立

Indian National Congress
AD1885年
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1885年の版図を描いています(24勢力)。

概要

英国人の元官僚が呼びかけて始まった。当初は請願を行う穏健な団体で、独立を掲げていない。それが50年で、帝国を退かせる組織になる。

場所

ムンバイ
18.94°N 72.84°E · インド・マハーラーシュトラ州

本文

1857年のインド大反乱のあと、インドは東インド会社の手を離れ、イギリス国王が直接治める国になった。統治の上の方はイギリス人が占め、インド人は下の役人にしかなれなかった。一方で、英語で教育を受けたインド人の層が育っていた。弁護士、教師、新聞記者、医師である。彼らはイギリスの議会や法の考え方を学び、それを自分たちにも当てはめてほしいと考えるようになった。

全国のそうした人々を一つに集めようと呼びかけたのが、アラン・オクタヴィアン・ヒュームというイギリス人だった。インドの高等文官を務めて退いた人物である。ヒュームの意図については、不満がたまって反乱になる前に、議論で吐き出させる「安全弁」を作ろうとしたのだ、という説明が古くからある。ただ、この説明はのちの伝記に由来するもので、ヒュームはインド人の政治参加を本気で後押ししていたとする見方もあり、評価は分かれている。

ムンバイ中心部
ムンバイ中心部Wikimedia Commons Qiw007 · CC BY 4.0

第一回の大会は、1885年12月末にボンベイ(いまのムンバイ)で開かれた。初めはプネーで開く予定だったが、コレラがはやって会場を移した。集まった代表は72人。議長には弁護士のW・C・ボナルジーが選ばれた。会の名は「インド国民会議」とされたが、全国民を代表していたわけではなく、ほとんどは英語を話す都市のエリートだった。

最初の要求は控えめだった。インド人も高等文官の試験を受けやすくすること、総督や州の立法評議会にインド人の議席を増やすこと、軍事費を抑えること。イギリスの統治そのものは前提にしていた。年に一度集まり、請願を出す。それが初めの20年の姿だった。

ジョーゲーシュワリー石窟
ジョーゲーシュワリー石窟Wikimedia Commons Himanshu Sarpotdar · CC BY 2.0

それでも、ここから大きな考えも生まれた。ダーダーバーイー・ナオロージーは、インドの富が税や送金の形でイギリスへ流れ出ているという「富の流出」の議論を唱え、のちにインド人として初めてイギリスの下院議員になった。統治の恩恵を説く側に、数字で反論したのである。

20世紀に入ると、会議派の中で路線が割れた。ゴーカレーら穏健派は、議会での漸進的な改革を求めた。ティラクら急進派は、自治は生まれながらの権利だと唱え、民衆を動かす運動を求めた。1905年のベンガル分割に対し、イギリス製品を買わず国産品を使う運動が広がると、急進派の声は強まった。1907年、両派は大会で衝突して分裂した。その前年の1906年には、ムスリムの政治団体として全インド・ムスリム連盟が生まれており、宗教で分かれた政治の芽もこのころにある。

大きく変わったのは第一次世界大戦のあとだった。インドは戦争に兵を送ったが、戦後に得たのは、令状なしの逮捕を認める法律と、1919年のアムリトサル虐殺だった。この年からガンディーが会議派の中心に立つ。ガンディーは会議派を、都市のエリートの集まりから、農民や女性も加わる大衆の運動に変えた。党費を安くし、地方の言葉で組織を作り、手紡ぎの布を運動のしるしにした。

1929年12月、ラホールの大会で、議長のジャワハルラール・ネルーのもと、会議派は完全な独立を目標に掲げた。翌1930年、ガンディーは塩の行進を始める。1942年にはイギリスにインドを去れと求める運動を起こし、指導者はそろって投獄された。

塩の行進に関わる図版:Marche sel
塩の行進Wikimedia Commons Yann ( talk ) · Public domain

1947年、インドは独立した(インドの独立)。創立から62年である。だが、ムハンマド・アリー・ジンナーが率いるムスリム連盟はパキスタンの分離を求め、インドは二つに分かれて独立した。会議派が目指した一つのインドは実現しなかった。

独立後、会議派はネルーのもとで長く政権を握り、その娘のインディラ・ガンディー、孫のラジーヴへと続く一族が党を率いた。体制の内側に不満の受け皿を作るつもりで始まった会は、帝国を退かせ、新しい国を治める党になった。

動画(1)

181 インドの民族運動の形成 世界史20話プロジェクト第19話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第181講「インドの民族運動の形成」

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