← 地図で見る
Person / 人

ロバート・E・リー

Robert E. Lee
AD1807年1月19日 – AD1870年10月12日(享年63)
アメリカ連合国重要度 5

概要

ヴァージニアの名家。ウェストポイント首席。米墨戦争の英雄。1861年、リンカーンが北軍の指揮を打診し、ヴァージニアが離脱すると、辞めて南についた。「私は故郷に剣を向けられない」。北ヴァージニア軍。少ない兵で勝ち続け、ゲティスバーグで負け、アポマトックスで降伏した。戦後、大学の学長。南部の「失われた大義」の聖人になり、その像が2017年から倒され始めた。

関わったできごと(2)

南北戦争1861年 · 南軍アポマトックスの降伏AD1865年4月9日 · 降伏した

本文

1807年、ヴァージニアのストラットフォード・ホール。父ヘンリー「ライトホース・ハリー」・リーは独立戦争の騎兵の将軍で、ワシントンの友人、その後、投機で破産して、監獄に入って、西インドへ逃げて、死んだ。ロバートは母に育てられた。ウェストポイント、2位、罰点ゼロ。工兵。1831年、メアリー・カスティス(ワシントンの妻の曾孫)と結婚。アーリントンの屋敷。

米墨戦争でスコットの参謀。偵察で道を見つけた。「私が戦場で見た最高の軍人」とスコット。1852〜55年、ウェストポイントの校長。1859年、ハーパーズ・フェリーでジョン・ブラウンを捕らえた。

1861年4月、ヴァージニアが離脱した。リンカーン(の側のブレア)が北軍の指揮を打診した。「奴隷制は道徳的・政治的な悪だ」と1856年に書いていたが、「4人の子を持つ故郷に剣を向けられない」と言って、辞任した。妻の奴隷(ワシントンの家の。遺言で解放されることになっていた)を1862年まで解放しなかった。

1862年6月、北ヴァージニア軍の司令官。「グラニー・リー」(塹壕を掘るので)と言われていた。七日間の戦い、第二次ブル・ラン、アンティータム、フレデリックスバーグ、チャンセラーズヴィル(1863年5月、6万で13万を破った。ジャクソンを失った)。ゲティスバーグ(7月、ピケットの突撃。「全部私の責任だ」)。1864年、グラント。1865年4月9日、アポマトックス。「私は千回死んだほうがましだった」。

反逆罪で起訴されたが、グラントが「降伏の条件で約束した」と言って、止めた。市民権は回復されなかった(1975年、フォード大統領が回復した)。ワシントン・カレッジ(レキシントン)の学長。1870年10月12日、脳卒中。63歳。

「失われた大義」。南部は彼を、奴隷制でなく州の権利のために戦った、完璧な軍人にした。像。リッチモンドのモニュメント通り(1890年)、ニューオーリンズ、シャーロッツヴィル。2017年、シャーロッツヴィルの像の撤去に白人至上主義者が集まって、1人が殺された。2021年、リッチモンドの像が撤去された。