ロバート・E・リー
概要
ヴァージニアの名家。ウェストポイント首席。米墨戦争の英雄。1861年、リンカーンが北軍の指揮を打診し、ヴァージニアが離脱すると、辞めて南についた。「私は故郷に剣を向けられない」。北ヴァージニア軍。少ない兵で勝ち続け、ゲティスバーグで負け、アポマトックスで降伏した。戦後、大学の学長。南部の「失われた大義」の聖人になり、その像が2017年から倒され始めた。
関わったできごと(2)
南北戦争1861年 · 南軍アポマトックスの降伏AD1865年4月9日 · 降伏した本文
1807年1月19日、ヴァージニア州のストラットフォード・ホールで生まれた。リー家はヴァージニアきっての名家で、父ヘンリー・リーは独立戦争で騎兵を率いて「ライトホース・ハリー」と呼ばれた英雄、ワシントンの友人だった。しかしその父は土地の投機に失敗して借金で牢に入り、ロバートが6歳のとき西インド諸島へ去って、二度と帰らなかった。少年は母に育てられ、父とは逆の、借金をせず、自分を律し、義務を果たす人間になろうとした。

陸軍士官学校ウェストポイントを1829年に2番の成績で卒業した。4年間、規律違反の罰点を一つも受けなかったことで知られる。工兵となり、河川や要塞の工事に携わった。1831年、マーサ・ワシントンの曾孫にあたるメアリー・カスティスと結婚し、首都ワシントンを見下ろすアーリントンの屋敷が妻の家となった。屋敷と農園では、カスティス家の奴隷たちが働いていた。
1846年からの米墨戦争で、彼はスコット将軍の参謀として名を上げた。危険な溶岩原や山道を自ら偵察して軍の通る道を見つけ、勝利に貢献した。スコットは後に、彼を戦場で見た最高の軍人だと評したと伝えられる。1852年から3年間はウェストポイントの校長を務め、1859年には、奴隷の武装蜂起を企ててハーパーズ・フェリーの武器庫を占拠したジョン・ブラウンを、海兵隊を率いて捕らえた。

1861年4月、南部の州が次々に連邦を離れ、南北戦争が始まった(南北戦争)。エイブラハム・リンカーンの政権は、リーに連邦軍の主力の指揮を打診した。しかしその直後、故郷ヴァージニアが連邦離脱を決めた。リーは、自分の生まれた土地、自分の家、自分の子どもたちに向かって手を上げることはできない、と書いて軍を辞め、南部連合の側についた。彼は1856年の手紙で奴隷制を道徳的にも政治的にも悪だと書いたが、同じ手紙で、その終わりは神の手に委ねるべきだとも述べていた。義父の遺言で解放されることになっていた奴隷たちを、彼が実際に解放したのは期限ぎりぎりの1862年末だった。逃亡を試みた奴隷を鞭打たせたという証言も残っている。
1862年6月、北ヴァージニア軍の司令官となった。それまで塹壕を掘らせてばかりいるとして「おばあさんリー」と揶揄されていた彼は、ここから大胆な攻勢に転じる。首都リッチモンドに迫った北軍を七日間の戦いで押し戻し、8月には第二次ブル・ランの戦いで勝った。9月にはメリーランドへ攻め込んだが、アンティータムで食い止められた。この戦いを機に、リンカーンは奴隷解放宣言を出している(奴隷解放宣言)。12月のフレデリックスバーグで北軍を大敗させ、1863年5月のチャンセラーズヴィルでは、倍以上の北軍を前に兵を分ける賭けに出て大勝した。ただしこの戦いで、片腕と頼んだ「ストーンウォール」ジャクソンが味方の誤射で倒れ、亡くなった。

勢いに乗ったリーは、1863年7月、北部ペンシルヴェニアへ侵攻し、ゲティスバーグで北軍とぶつかった。3日目、彼は北軍の陣の中央へ1万を超える兵を正面から突撃させたが、兵は砲火の中でなぎ倒された。率いた将軍の名から「ピケットの突撃」と呼ばれる。戻ってきた兵たちに、彼は、すべて私の責任だ、と言ったという。南軍がこれほど北へ攻め込むことは、二度となかった。
1864年、ユリシーズ・グラントが北軍の総司令官となり、損害を顧みずに押し続ける戦いが始まった。リーは巧みな守りで北軍に大きな犠牲を強いたが、兵も物資も補充のきかない南軍は、ピーターズバーグの塹壕で9か月の包囲に耐えたのち、1865年4月に崩れた。首都リッチモンドは落ち、西へ逃れた軍は飢えていた。降伏を決めたとき、彼は、グラント将軍に会いに行くくらいなら千回死んだほうがましだ、と漏らしたと伝えられる。4月9日、アポマトックスの民家でグラントと会い、降伏した(アポマトックスの降伏)。グラントは将兵を捕虜とせず、馬を持ち帰らせ、飢えた兵に食料を配った。

戦後、リーは反逆の罪で起訴されたが、降伏の条件を守るべきだとするグラントの強い反対で、裁判は行われなかった。恩赦を求めて出した忠誠の誓いの書類は役所で紛失し、市民権は生前には戻らなかった。それが回復されたのは、1975年、フォード大統領のときである。アーリントンの屋敷は戦争中に連邦に没収され、庭は戦死した北軍の兵士の墓地となった。いまのアーリントン国立墓地である。
彼はヴァージニアの小さな大学、ワシントン・カレッジの学長を引き受け、若者の教育に余生を捧げた。南部の人々に、恨みを捨てて合衆国の市民として生きるよう説いた。1870年10月12日、脳卒中のため63歳で亡くなった。大学はのちにワシントン・アンド・リー大学と名を改めた。

死後、南部では、南部連合は奴隷制ではなく州の権利のために戦った、という「失われた大義」の物語が広まり、リーはその中心に、高潔で非の打ちどころのない騎士として祭り上げられた。19世紀の終わりから20世紀にかけて、リッチモンドの大通りをはじめ各地に彼の像が建てられた。その多くは、南部で黒人の権利が奪われ、人種隔離の法が整えられていった時代のものだった。2017年、ヴァージニア州シャーロッツヴィルで像の撤去に反対する白人至上主義者の集会が開かれ、抗議に来ていた女性が車にはねられて死んだ。これを機に撤去の動きが全国に広がり、2021年、リッチモンドの巨大な騎馬像も台座から降ろされた。卓越した将軍だったことは疑われていない。問われているのは、彼が何のために戦い、後の人々が彼を何のために記念したのか、である。