連帯の結成
概要
グダンスクの造船所の電気工が柵を越えて、ストライキを率いた。政府が独立自主管理労組を認めた。「連帯」。1000万人。ソ連圏で初めての、党の外の組織。1981年12月、戒厳令。地下へ。1989年、円卓。選挙。ワレサは1990年に大統領になった。
場所
54.35°N 18.65°E · ポーランド
関わった人(1)
レフ・ワレサAD1943年9月29日–? · 率いた本文
第二次世界大戦のあと、ポーランドはソ連の影響のもとで共産党(統一労働者党)が治める国になった。だが国民の多くはカトリックの信仰を手放さず、党の支配を心から受け入れてはいなかった。党は労働者の党を名乗りながら、労働者に何度も銃を向けてきた。1956年にはポズナンで、1970年12月にはバルト海沿岸のグダンスクやグディニャで、食料品の値上げに抗議した労働者を軍と警察が撃ち、1970年だけで40人を超える死者が出た。
1976年、政府が再び食料品の大幅な値上げを発表すると、ワルシャワ郊外のウルススやラドムで労働者が抗議し、多くが逮捕され、職場を追われた。これをきっかけに、ヤツェク・クーロンやアダム・ミフニクら知識人が「労働者擁護委員会」を作り、捕らえられた労働者の家族を支え、裁判を傍聴し、地下の出版物を配りはじめた。知識人と労働者が手を結んだことが、のちの運動の土台になった。

1978年10月、クラクフの大司教カロル・ヴォイティワが教皇に選ばれ、ヨハネ・パウロ2世となった。翌1979年6月、教皇は祖国を訪れ、行く先々で何十万、何百万という人々が集まった(ヨハネ・パウロ2世のポーランド訪問)。ワルシャワのミサで教皇は、聖霊がこの地の面を新たにするよう祈った。人々は、党に動員されたのではない自分たちの集まりがどれほど大きいかを、初めて目で見た。
1980年7月、政府はまた食肉の値上げを決めた。各地の工場でストライキが起きたが、その多くは賃上げで収まった。8月14日、グダンスクのレーニン造船所で労働者が仕事を止めた。きっかけは、クレーンの運転士で長年の活動家だったアンナ・ヴァレンティノヴィチが、定年の数か月前に解雇されたことだった。その朝、造船所の塀を乗り越えて中へ入ってきた男がいた。1976年に造船所を解雇されていた電気工、レフ・ワレサである。彼はストライキの委員会の先頭に立った。

8月16日、造船所の経営側は賃上げとヴァレンティノヴィチの復職などを認め、ワレサはいったんストライキの終わりを告げた。だが、造船所の連帯を頼りに一緒にストライキに入っていたほかの工場の代表や、ヴァレンティノヴィチら女性たちが、ここでやめれば小さな工場は見捨てられると訴えて門を閉じさせた。ワレサは考えを改め、ストライキは続けられた。グダンスクと周辺の数百の工場の代表が集まって「工場間ストライキ委員会」を作り、造船所の会議室に陣取った。
委員会は21か条の要求をまとめ、木の板に書いて造船所の門に掲げた。最初の項目は、党と国から独立した自主管理の労働組合を認めることだった。ストライキの権利、言論と出版の自由、政治犯の釈放、日曜のミサのラジオ放送、物資の不足の解消、土曜日を休みにすることなどが続いた。賃金の要求ではなく、共産党の国のしくみそのものに手を触れる要求だった。造船所の門には、ヨハネ・パウロ2世の肖像と聖母の絵が飾られ、門の前では神父がミサをあげ、労働者たちは門の内側でひざまずいて祈った。外では家族や市民が食べ物を差し入れた。シュチェチンなどほかの港町でも、同じようなストライキが広がった。

政府は力で押さえ込むことを考えたが、ストライキがあまりに広く、流血を避けたかった。副首相のヤギェルスキがグダンスクへ来て、委員会と交渉した。交渉の様子は造船所の中にスピーカーで流された。1980年8月31日、両者はグダンスク協定に署名した。政府は独立した労働組合を認め、ストライキの権利を認めた。組合の側は、社会主義の体制と党の指導的な役割、そしてポーランドの国際的な同盟関係を認めた。ワレサは、ヨハネ・パウロ2世の肖像がついた大きな記念のペンで署名した。
9月17日、各地の独立労組の代表がグダンスクに集まり、全国の組織を一つにまとめた。名前は「連帯」(ソリダルノシチ)と決まった。加わる人は爆発的に増え、まもなく1000万人に近づいた。ポーランドの働く人の大部分にあたる。農民も独自の組合を作った。ソ連とその衛星の国々で、党の外に、党と並ぶこれほど大きな組織ができたのは初めてだった。
それから1年あまりは、ポーランドの人々が「16か月」と呼ぶ時代になる。検閲がゆるみ、それまで語られなかった1970年の銃撃や、ソ連が戦争中にポーランドの将校を殺したカティンの森のことが、公に語られはじめた。だが緊張は高まり続けた。1981年3月、北部の町ビドゴシチで連帯の活動家が警察に殴られると、連帯は全国で一斉に仕事を止める警告のストライキを打った。ソ連と東ヨーロッパの軍はポーランドのまわりで大規模な演習を繰り返し、1968年のプラハの春のような介入が近いと恐れられた。9月から10月にかけての連帯の第1回大会は、東ヨーロッパの労働者に向けて、自由な労働組合を作るよう呼びかける声明を出した。10月、国防相のヤルゼルスキ将軍が党の第一書記になり、首相も兼ねた。

1981年12月13日の未明、ヤルゼルスキは全国に戒厳令を敷いた。電話は切られ、街に戦車が出て、テレビには軍服の将軍が映った。ワレサをはじめ連帯の指導者や活動家およそ1万人が一夜のうちに拘束された。南部のヴイェク炭鉱では、ストライキで立てこもった炭鉱労働者に警察の部隊が発砲し、9人が死んだ。連帯は非合法とされ、地下に潜った。ヤルゼルスキはのちに、ソ連の介入を避けるための、より小さな悪だったと主張したが、その評価はいまも分かれている。
それでも連帯は消えなかった。地下の新聞が刷られ、ラジオが流れた。1983年、戒厳令は解かれ、ワレサはノーベル平和賞を受けた。国を出れば戻れなくなることを恐れた彼に代わって、妻のダヌタがオスロで賞を受け取った。1984年には、連帯を支えた神父ポピェウシュコが秘密警察に殺され、葬儀に数十万人が集まった。
1980年代の後半、ポーランドの経済は行き詰まり、ソ連ではゴルバチョフが改革を始めていた。1988年に再びストライキの波が起きると、政府はついに連帯と話し合うことを選んだ。1989年2月から4月にかけて、政府と連帯の代表が丸いテーブルを囲む円卓会議が開かれ、連帯の合法化と、一部を自由にした選挙の実施が決まった。6月4日の選挙で、連帯は自由に争われた議席をほぼすべて取った。新しく作られた上院では100議席のうち99、下院では自由に選べる161議席のすべてである。同じ日、北京では天安門広場の学生たちが武力で排除されていた(天安門事件)。8月、連帯の知識人タデウシュ・マゾヴィエツキが首相になった。ソ連の衛星の国で初めての、共産党員でない首相である。この年の秋、東ヨーロッパの共産党の政権は次々に倒れていった(ベルリンの壁の崩壊、ビロード革命)。
1990年、ワレサは大統領に選ばれた。だが共通の敵を失った連帯は、まもなくいくつもの政党と潮流に割れ、市場経済への急な移行で職を失った労働者のなかには、連帯に裏切られたと感じる人も少なくなかった。グダンスクの造船所の門は、いまも当時の姿で残り、すぐ隣には2014年に「ヨーロッパ連帯センター」が開かれた。21か条の要求を書いた木の板は、ユネスコの世界の記憶に登録されている。