できごと

阿衡の紛議

Akō Controversy
AD888年(仁和4年)
重要度 3
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概要

宇多天皇が藤原基経を関白にする詔に「阿衡の任」と書いた。基経は「阿衡は位だけで職務がない」と半年出仕を止めた。天皇は詔を書き直し、起草した橘広相を罰した。関白の力が天皇を上回ることを見せた。宇多は基経の死後、菅原道真を用いた。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

関わった人(1)

藤原基経AD836年–AD891年2月25日 · 関白

本文

9世紀の後半、藤原北家は天皇の外戚として朝廷の実権を握りつつあった。藤原良房は858年、幼い清和天皇のもとで臣下として初めて摂政の役目を果たし(藤原良房の摂政)、その養子の藤原基経が後を継いだ。基経は884年、乱行の噂のあった陽成天皇を退位させ、55歳の光孝天皇を立てた。光孝天皇は自分を帝位につけた基経に深く感謝し、政治のすべてをまず基経に相談してから行うよう命じた。のちの関白の始まりとされる取り決めである。

887年8月、光孝天皇が重い病に倒れた。天皇は自分の子たちを皇族の籍から外して臣下にしていたが、そのうちの一人、源定省を急いで皇族に戻し、皇太子に立てた。その日のうちに光孝天皇は亡くなり、定省が21歳で即位した。宇多天皇である。この即位には基経の後押しがあったが、宇多天皇の母は藤原氏ではなく、天皇と基経のあいだには、もともと血のつながりによる深い結びつきが無かった。

宇多天皇の肖像
宇多天皇の肖像Wikimedia Commons Emperor_Uda_large.jpg : unknown derivative work: bamse ( talk ) · Public domain

887年11月、宇多天皇は、父の代と同じように、政治のすべてを基経に「関り白す」よう命じる詔を出した。「関白」という言葉が初めて使われた詔である。基経は、当時の礼儀に従って一度これを辞退した。そこで天皇は、閏11月に二度目の詔を出す。起草したのは、天皇が東宮のころから仕えてきた学者の橘広相だった。その中に、「よろしく阿衡の任をもって卿の任とせよ」という一句があった。阿衡とは、古代中国の殷の時代に、名宰相の伊尹が就いたとされる官の名である。広相は、基経を伊尹のような重臣とたたえるつもりで、この故事を使った。

ところが、学者の藤原佐世が基経に、阿衡は位が高いだけで、実際に受け持つ職務の無い名ばかりの官だ、と告げた。これを聞いた基経は、自分は職務の無い者として扱われたのだとして、政務に出ることをやめてしまった。太政官の長である基経が動かなければ、朝廷の政治は止まる。年が明けて888年になっても、基経は出仕せず、政務の滞る状態は半年あまり続いた。

藤原基経の肖像
藤原基経Wikimedia Commons Kikuchi Yōsai · Public domain

宇多天皇は、学者たちに阿衡の意味を論じさせたが、多くは基経の顔色をうかがって、職務は無いとする佐世の説に同調した。結局、天皇が折れた。888年6月、天皇は改めて詔を出し、前の詔の文言は自分の本意ではなかったとして、基経に政治を委ねることをあらためて示した。宇多天皇は自分の日記に、このときの無念の思いを書き残している。

基経の側は、さらに起草した広相の罪を問おうとした。広相の娘は宇多天皇の妃となって皇子を産んでおり、藤原氏の外戚の座をおびやかしうる存在でもあった。このとき、讃岐の国司として都を離れていた菅原道真が、基経に意見の書を送った。文の言葉の解釈をめぐって学者を罪に落とせば、これから先、文章を書く者がいなくなる、広相を罰することは基経自身の名を傷つける、という内容だった。広相は罪を免れたが、2年後に亡くなった。この年の秋、基経の娘の温子が、宇多天皇の女御として宮中に入っている。

阿衡の紛議と呼ばれるこの騒ぎは、言葉の解釈をめぐる争いの形をとりながら、実際には、新しい天皇と藤原氏のどちらが上に立つかを示した出来事だった。天皇が出した詔を、臣下の求めによって事実上書き改めさせたのである。関白の地位は、この事件を通して朝廷の中に確かなものになった。

891年に基経が亡くなると、宇多天皇は新たに関白を置かなかった。代わりに、あのとき広相をかばった菅原道真を蔵人頭に抜擢し、政治の中枢に引き上げた。藤原氏の力を抑え、自ら政治を執ろうとしたのである。道真の進言で遣唐使の中止が決まったのも、この時代のことだった。897年、宇多天皇は息子の醍醐天皇に位を譲り、新しい天皇への心得を書き与えて、道真と、基経の子の藤原時平の二人を重く用いるよう説いた。しかし901年、道真は時平らに陥れられて大宰府に流され、その地で亡くなる。藤原氏はその後、摂関政治の頂点と呼ばれる時代へと進んでいく。阿衡の一句をめぐる半年の争いは、その長い流れの入り口に置かれている。

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