大日本帝国憲法の発布

概要
アジアで最初の近代的な成文憲法。天皇が定めて国民に与える形をとり、議会には限られた権限が置かれた。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(1)
伊藤博文1841年–1909年 · 起草本文
1889年2月11日、皇居の正殿で、明治天皇が憲法を首相の黒田清隆に手渡した。この日は紀元節、つまり神武天皇が即位したとされる日である。天皇が自ら定めて国民に与える、という形を目に見える儀式にしたものだった。東京の町は祝いの行列や飾りでにぎわった。
ここに至るまでには、20年近い曲折があった。1874年、板垣退助らが選挙で選ばれた議会を開くよう政府に求め、自由民権運動が広がった。政府の内部でも、憲法をいつ、どの国にならって作るかで意見が割れた。1881年、イギリス流の議院内閣制を早く導入すべきだと説いた大隈重信が政府から追われる(明治十四年の政変)。同時に、9年後の1890年に国会を開くことが天皇の名で約束された。期限を切ったことで、それまでに憲法を作らなければならなくなった。

その仕事を担ったのが伊藤博文である。1882年からおよそ1年半ヨーロッパに渡り、ベルリンで法学者グナイストに、ウィーンでシュタインに学んだ。君主が大きな権限を持つドイツ、とくにプロイセンの憲法が、日本に合うと考えた。議会が政府を作るイギリスの仕組みでは、まだ育っていない政党に国の行方を委ねることになる、という判断である。
帰国した伊藤は、1885年に内閣制度を作り、初代の総理大臣になった。草案は井上毅を中心に、伊東巳代治、金子堅太郎が加わり、ドイツ人の法律顧問ロエスレルの意見も取り入れて練られた。作業は横須賀の夏島などで、外に漏れないように進められた。1888年には天皇の相談機関として枢密院を置き、伊藤が議長となって草案を審議した。天皇もほぼすべての会議に出席している。

できあがった憲法は全76条。天皇は「神聖ニシテ侵スヘカラス」とされ、国の統治権をすべて握ると定められた。陸海軍を指揮する権限、いわゆる統帥権も天皇に属し、内閣や議会がそこに口を出す道ははっきりとは書かれなかった。大臣は議会ではなく天皇に対して責任を負う。
それでも、近代の憲法としての骨組みは備えていた。臣民の権利として、言論・出版・集会・結社の自由、信教の自由、財産権などが書かれた。ただし多くに「法律ノ範囲内ニ於テ」という限定が付き、法律でいくらでも狭められる余地を残した。議会は、華族などからなる貴族院と、選挙で選ばれる衆議院の二院とされた。予算や法律には議会の同意が要る。裁判所は政府から独立する。

もっとも、議会の力には歯止めが掛けられていた。議会が予算を認めなかった場合、政府は前の年の予算をそのまま使えるとされた。衆議院の選挙権を持てたのは、直接国税を15円以上納める25歳以上の男子だけで、人口の1パーセント余りにすぎなかった。
この憲法は、アジアで最初の近代的な成文憲法とよく言われる。ただ、アジアとヨーロッパにまたがるオスマン帝国が1876年に憲法を定めており(翌々年に停止)、それを先とみる考え方もある。いずれにせよ、欧米の外で議会を持つ立憲国家が生まれたことは、不平等条約の改正を目指す日本にとって、文明国であることを示す大きな材料になった。

発布の当日の朝、文部大臣の森有礼が、伊勢神宮で不敬な振る舞いをしたという噂を信じた男に刺され、翌日死んだ。東京にいたドイツ人医師ベルツは日記に、町じゅうが祝いに沸いているが、誰も憲法の中身を知らない、という意味のことを書き残している。
憲法と同じ日に、皇位の継承などを定めた皇室典範も定められた。こちらは憲法とは別の法として扱われ、議会が関わることはできなかった。
翌1890年7月に初めての総選挙があり、限られた有権者の9割以上が投票した。11月に第一回帝国議会が開かれた。同じ年に教育勅語が出され、天皇への忠誠を教育の柱に据えた。議会は予算をめぐってしばしば政府とぶつかり、やがて政党が力を付けて、大正期には政党が内閣を組むのが慣例になっていく。条文が変わらなくても、運用しだいで中身は広がりうる憲法だった。

だが、統帥権が内閣から切り離されていたことは、のちに重い意味を持った。1930年、ロンドン海軍軍縮条約の調印に対し、軍や野党は政府が統帥権を侵したと攻撃した。1931年の満洲事変では、現地の軍が政府の方針を無視して戦線を広げ、政府はそれを追認した。軍の行動を止める仕組みが、条文のどこにもはっきりとは書かれていなかったのである。
この憲法は一度も改正されることなく、1947年に日本国憲法に置き換えられた。その日本国憲法も、形の上では明治憲法の改正手続きを踏んで成立している。