できごと

カシニのフランス測量図

Cassini map
AD1744年
重要度 4
ロシア帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国ネーデルラント連邦共和国大英帝国ポーランド・リトアニア共和国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国エジプトオーストリア帝国フランス王国スペインモロッコAlgiersイギリスアイルランド王国TunisBrandenburgヴェネツィア共和国NaplesTripolitaniaCyrenaicaプロイセンAD1744年パリ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1744年の版図を描いています(25勢力)。

概要

一つの国の全土を、三角測量で測って地図にする。世界で最初の試みである。カシニ家が四代、およそ80年をかけた。基線を精密に測り、そこから三角形を連ねて、全国に骨組みを張る。結果は、意外なものだった。フランスは、それまで思われていたより小さかった。ルイ14世が「私は、敵に奪われたより多くの領土を、あなた方の測量に奪われた」と言ったと伝えられる。革命政府がこの図を接収し、軍が使い、そして各国が真似た。国家が自国の形を正確に知る、最初の道具になった。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

本文

17世紀まで、ヨーロッパの地図は正確ではなかった。海岸線は航海の経験から比較的よく描けたが、内陸がうまくいかない。町と町の距離は旅に要した日数や土地の人の話から割り出し、方角は目分量で決めていた。経度を正確に測る方法も無かった(経度法)。どの国も、自分の国の本当の形と大きさを知らなかった。

この状況を変えたのが三角測量である。まず平らな土地に一本の線を引き、その長さを物差しでできるかぎり精密に測る。これを基線と呼ぶ。基線の両端から遠くの目標、たとえば教会の尖塔や丘の上の目印までの角度を測れば、三角形の一辺と二つの角が分かり、残りの辺の長さは計算で出せる。その辺を次の三角形の一辺にして、また角度を測る。距離をじかに測るのは最初の一本だけで、あとは角度を測るだけで三角形の鎖を遠くまで延ばしていける。原理は16世紀にゲンマ・フリシウスが説き、1615年にはオランダのスネルが実際にこの方法で距離を測っていた。

カシニの地図に描かれたヴェルサイユ
カシニの地図に描かれたヴェルサイユWikimedia Commons Cassini III · Public domain

フランスでこの技術を国の事業にしたのが、太陽王ルイ14世のもとで1666年に作られた科学アカデミーと、パリ天文台である。1669年、ボローニャ大学の天文学者ジョヴァンニ・ドメニコ・カッシーニがルイ14世に招かれてパリに来た。彼は土星の環の隙間を見つけたことで知られ、木星の衛星の食を時計代わりに使って経度を測る方法も研究していた。フランスに帰化し、天文台の事実上の長となった。以後、息子のジャック、孫のセザール=フランソワ、ひ孫のジャン=ドミニクと、カッシーニの家は四代にわたってこの天文台と測量の仕事を担うことになる。

1670年前後、ジャン・ピカールが三角測量で子午線の長さを測り、続いて科学アカデミーの学者たちが新しい方法でフランスの海岸の位置を測り直した。結果は意外なものだった。フランスは、それまでの地図に描かれていたより小さかった。とりわけ西の海岸が、実際より大きく西へはみ出して描かれていたのである。修正された地図を見たルイ14世は、あなた方の測量に、敵に奪われたより多くの領土を奪われた、と嘆いたと伝えられる。言葉の出典ははっきりしないが、17世紀の終わりから繰り返し語られてきた話である。

カシニの地図(ブザンソン・プラノワーズ)
カシニの地図(ブザンソン・プラノワーズ)Wikimedia Commons Toufik-de-planoise · Public domain

18世紀の前半、カッシーニ家はパリを通る子午線を北のダンケルクから南のペルピニャンまで測った。この測量からジャック・カッシーニは、地球は南北に長い形をしていると主張した。ニュートンの理論は逆に、地球は赤道の方向にふくらんでいると予言していた。決着をつけるため、科学アカデミーは北のラップランドと赤道近くのペルーへ測量隊を送り、1730年代の末に、地球は赤道方向にふくらんでいるという結果が出た。カッシーニ家の主張は退けられたが、この論争の中で測量の技術は大きく磨かれた。

1744年、三代目のセザール=フランソワ・カッシーニ・ド・チュリーは、フランス全土を覆う三角形の網を完成させた。網の骨組みの上に、村や道や森を描き込めば、全国の正確な地図ができる。彼はその仕事に取りかかった。縮尺は8万6400分の1、全土を180枚ほどの図に分けて描く計画で、のちにカッシーニ図と呼ばれる。ところが1756年に七年戦争が始まると、国からの資金が止まった。セザール=フランソワは出資者を募って会社を作り、地図の販売で得た収益を分け合う形で事業を続けた。国家の地図づくりを民間の資金で続けた、当時としては珍しい試みである。

カシニの地図(サン=スープレ)
カシニの地図(サン=スープレ)Wikimedia Commons Cassini · Public domain

図には村や町、教会のほか、風車、水車、修道院、街道、川、橋、森、沼が描かれ、絞首台まで記号で示されていた。教会の尖塔が丁寧に描き分けられているのは、それが三角測量の目標になったからである。一枚の図を見れば、当時の村の分布や土地の使われ方がそのまま読み取れるため、いまも歴史地理学や考古学の史料として使われている。フランスの国の地理の機関は、全図を電子化して公開している。

1784年にセザール=フランソワが天然痘で亡くなると、息子のジャン=ドミニクが事業を継いだ。そこへフランス革命が起きる。1793年、革命政府は地図とその原版を国のものとして取り上げた。正確な地図は軍事上の機密だったからである。王家に近かったジャン=ドミニクは翌年投獄され、数か月後に釈放されたが、天文台の職を離れ、以後は表舞台から退いた。地図はその後軍の手で仕上げられ、最後の図が刷られたのは19世紀に入ってからだった。ナポレオン・ボナパルトの軍も、この地図の恩恵を受けたとされる。

カシニのフランス地図の一部
カシニのフランス地図の一部Wikimedia Commons Cassini · Public domain

国の全土を三角測量で測って地図にするというやり方は、各国に広がった。イギリスでは1745年のジャコバイトの反乱のあと、軍がスコットランド高地の測量を始め、それが1791年の陸地測量部につながった。この機関の名には「兵器」を意味する語が入っていて、出自が軍にあったことを示している。イギリスは19世紀にはインドでも大がかりな測量を進めた(インド大三角測量)。日本では伊能忠敬が1800年から全国を歩いて測り、精密な日本図を残した(伊能忠敬の日本図)。伊能の方法は三角測量ではなく、距離と方位を積み重ねる導線法に天体の観測を組み合わせたものだったが、驚くほど正確だった。同じ測量の技術は、子午線の長さから長さの単位を決めるメートル法の制定にも使われた。

国家が自分の国の形を正確に知るようになると、できることが変わる。土地の広さが分かれば税を取りやすくなり、村の分布が分かれば兵を集めやすくなり、地形が分かれば軍を動かしやすくなる。そして境界を、地図の上の一本の線として引けるようになった。それ以前の境界は、この川まで、あの森の向こう、この村はこちらの領主に年貢を納める、といった慣わしで決まる幅のある帯だった。測量ができれば、地図に線を引き、その線を現地に石で刻める。近代の国家の国境はこうして線になった。19世紀にはこの技術がヨーロッパの外へ持ち出され、インドやアフリカや東南アジアで、測量が支配に先立つことになる。地図が国家の自己像を形づくる道具になったことは、物語「『想像の共同体』で読む歴史」でも論じられている。

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