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Event / できごと

ビルマの併合

Third Anglo-Burmese War
AD1885年11月28日
重要度 4

概要

コンバウン朝は3度イギリスと戦って、南から削られていた。1885年、ボンベイ・ビルマ商会の木材の罰金をめぐる争いを口実に、イギリスは最後通牒を出し、11日でマンダレーに入った。ティーボー王と王妃はインドへ流された。ビルマはインド帝国の一州にされた(王国でなく州にしたことが、後の民族運動の芯になった)。ゲリラの抵抗は5年続いた。

場所

マンダレー
21.96°N 96.09°E · ミャンマー

関わった人(1)

ティーボー王AD1859年1月1日–AD1916年12月19日 · 流された

本文

コンバウン朝は1752年から。1767年にアユタヤを落とし、清の遠征を4度退けた強国だった。

第一次(1824〜26年)。アッサムと東ベンガルをめぐって。イギリスが勝ち、アラカンとテナセリムを取り、100万ポンドの賠償金を課した。当時の英領インドで最も高くついた戦争。第二次(1852年)。ラングーンのイギリス商船の船長が現地の役人に罰金を科されたことを口実に、下ビルマ(ペグー)を取った。ビルマは海を失った。

上ビルマ。ミンドン王(1853〜78年)は、都をマンダレーに移し(1857年)、行政を改め、電信と蒸気船を入れ、第五回仏典結集を開いて、大理石の板729枚に三蔵を刻ませた(「世界最大の本」)。フランスと近づいた。

1878年、ミンドンが死んだ。王位継承。スパヤラット(王女)とその母が、穏やかで無害と思われた王子ティーボーを立て、王族80人以上を殺した(絹の袋に入れて、王の血を地に流さないように、象に踏ませた、と伝える)。イギリスの新聞が「東洋の残虐」として書いた。

1885年、ボンベイ・ビルマ商会(イギリスの木材会社)が、報告より多くのチークを伐り出して、現地の役人に賄賂を渡していた、として、ビルマ政府が23万ポンドの罰金を科した。会社はロンドンに訴えた。同じ頃、ティーボーがフランスと条約を結ぼうとしている(銀行、鉄道、武器)という情報が入った。トンキンをめぐって英仏が対立していた時期。

1885年10月22日、インド副王ダファリンが最後通牒。罰金の件をイギリスの仲裁に委ね、外交を英領インドの統制下に置き、イギリスの代表を宮廷に常駐させること。11月9日、ビルマは主要な部分を拒んだ。

11月14日、プレンダーガスト将軍の1万が、イラワジ川を汽船で遡った。ほとんど抵抗がなかった(王の軍は装備が古く、士気が低く、大臣に内通があった)。11月28日、マンダレー。11月29日、ティーボーとスパヤラットは、牛車で王宮を出て、川岸へ歩かされた。市民が沿道に伏して泣いた。汽船でラングーン、そしてインドのラトナギリ(マハラシュトラの海沿いの町)へ。

1886年1月1日、上ビルマの併合が布告された。ビルマ全土が、インド帝国の一州にされた。王制の廃止。王宮は「フォート・ダファリン」と改名され、宮殿はイギリス将校のクラブになった。

その後5年、ゲリラの抵抗(「ダコイト=盗賊」とイギリスは呼んだ)が続き、3万〜4万の兵が鎮圧に投入された。村ごと焼く「平定」。

王制と、僧団を保護する王がいなくなったことが、ビルマの社会に深い穴を開けた。1906年の青年仏教徒会、1920年代の学生運動、そしてアウンサンの独立運動が、そこから出た。

ティーボーは1916年、ラトナギリで死んだ。57歳。彼と王妃の墓は、いまもインドにある。2012年、子孫がビルマへの返還を求めた。

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