できごと

ビルマの併合

Third Anglo-Burmese War
AD1885年11月28日
重要度 4
大英帝国ロシア帝国清イギリス領インド帝国アラビアペルシアオランダ領東インドスペイン帝国ラタナコーシン朝(シャム)アフガニスタン日本マラヤ安南朝鮮王朝フィリピンブハラ・ハン国フランス領インドシナネパールオマーン中央アジアの諸ハン国セイロンAD1885年11月28日マンダレー
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1885年11月28日の版図を描いています(21勢力)。

概要

コンバウン朝は3度イギリスと戦って、南から削られていた。1885年、ボンベイ・ビルマ商会の木材の罰金をめぐる争いを口実に、イギリスは最後通牒を出し、11日でマンダレーに入った。ティーボー王と王妃はインドへ流された。ビルマはインド帝国の一州にされた(王国でなく州にしたことが、後の民族運動の芯になった)。ゲリラの抵抗は5年続いた。

場所

マンダレー
21.96°N 96.09°E · ミャンマー

関わった人(1)

ティーボー王AD1859年1月1日–AD1916年12月19日 · 流された

本文

ビルマ(いまのミャンマー)最後の王朝、コンバウン朝は、1752年にアラウンパヤーが興した(コンバウン朝の成立)。18世紀の後半には、1767年にタイのアユタヤを攻め落とし、清の大軍の遠征を4度にわたって退けた。東南アジア大陸部で屈指の強国だった。

その強国が、西から迫るイギリスと国境を接することになる。19世紀の初め、ビルマはアッサムやマニプルへ勢力を伸ばし、ベンガルを治めるイギリス東インド会社とぶつかった。第一次英緬戦争(1824〜26年)でビルマは敗れ、西のアラカンと南のテナセリムを割譲し、多額の賠償金を払わされた。イギリスにとっても、多くの兵を病で失った高くつく戦争だった。1852年の第二次英緬戦争では、ラングーンでのイギリス商船の船長と現地の役人とのいさかいが口実とされ、イギリスはイラワジ川の河口を含む下ビルマを奪った。ビルマは海への出口を失い、内陸の上ビルマだけの国になった。

残された王国を立て直そうとしたのが、ミンドン王(在位1853〜78年)である。1857年に新しい都マンダレーを築き、役人に給料を払う制度を整え、電信や蒸気船を取り入れ、若者をヨーロッパへ学びに出した。敬虔な仏教徒でもあり、1871年には上座仏教の経典を校訂する結集を開き、校訂した三蔵を729枚の大理石の板に刻ませた。木の板に経典を彫った高麗版大蔵経に対して、こちらは石に刻んだ経典で、マンダレーの丘のふもとにいまも並んでいる。

高麗版大蔵経に関わる図版:Tripitaka Koreana 02
高麗版大蔵経Wikimedia Commons Bernard Gagnon · CC0

1878年、ミンドンが後継者を決めないまま死ぬと、宮廷の権力争いが起きた。王妃の一人とその娘のスパヤラットは、おとなしく扱いやすいと見られた王子ティーボー王を王位に就け、スパヤラットがその妃となった。翌年、王位をうかがう恐れのある王族たちがまとめて処刑された。80人を超えたとされ、王族の血を地に流さないよう、布の袋に入れて殺したと伝えられる。イギリスの新聞はこれを東洋の暴君の残虐として大きく書き立て、ビルマへの介入を求める声が高まった。

ティーボーの宮廷は、イギリスに対抗するため、フランスやイタリアに近づいた。ちょうどフランスがベトナム北部のトンキンを支配下に収め、ビルマに接するところまで勢力を伸ばしていた時期である。1885年には、フランスがビルマに銀行や鉄道を作り、武器を供給するという話がイギリス側に伝わった。真偽は別として、イギリス領インドの東隣にフランスが入り込むことは、イギリスにとって許しがたかった。

1885年11月28日、マンダレーへの英軍到着(第三次英緬戦争、撮影:フーパー)
1885年11月28日、マンダレーへの英軍到着(第三次英緬戦争、撮影:フーパー)Wikimedia Commons Willoughby Wallace Hooper · Public domain

そこへ一つの事件が起きた。上ビルマの森でチーク材を伐り出していたイギリスの会社、ボンベイ・ビルマ商会が、届け出より多くの木を伐り、役人に賄賂を贈っていたとして、ビルマ政府が巨額の罰金を科したのである。会社はイギリスに訴えた。1885年10月22日、インド総督ダファリンは最後通牒を突きつけた。罰金の問題をイギリスの仲裁に任せること、イギリスの代表をマンダレーに常駐させること、そしてビルマの外交をイギリス領インドの統制の下に置くこと。11月9日、ビルマはその主要な部分を拒んだ。

すでに戦の用意はできていた。11月14日、プレンダーガスト将軍の率いるおよそ1万の部隊が、蒸気船の船団でイラワジ川を遡り始めた。ビルマ軍は装備が古く、宮廷の中にも戦いを避けようとする者がいて、抵抗らしい抵抗はほとんどなかった。11月28日、イギリス軍はマンダレーに入った。進軍を始めてから2週間ほどである。翌29日、ティーボー王とスパヤラット妃は王宮を出され、牛車で川岸の汽船へ向かった。沿道には市民がひれ伏して涙を流したと伝えられる。二人はインド西海岸の小さな港町ラトナギリへ流された。

イギリス軍に占領されたミンフラ(英語版)
イギリス軍に占領されたミンフラ(英語版)Wikimedia Commons Hooper, Willoughby Wallace (1837-1912) · Public domain

1886年1月1日、イギリスは上ビルマの併合を布告し、ビルマ全土をイギリス領インドの一つの州とした。王朝は廃され、王宮は「ダファリン砦」と名を変えられ、宮殿の広間はイギリス人の将校のクラブとなった。ビルマは保護国として王を残されたのでもなく、独立した植民地とされたのでもなく、インドの一部として扱われた。

だが、ビルマの人々は簡単には従わなかった。王族や地方の有力者、僧侶に率いられた抵抗は各地で続き、イギリスはこれを「盗賊(ダコイト)」の討伐と呼んで、数万の兵を送り込み、抵抗の拠点となった村を焼いた。全土がほぼ平定されるまでには、5年ほどかかった。

1885年11月、ティーバウ王と王妃スーパヤラット、副王妃スーパヤレー
1885年11月、ティーバウ王と王妃スーパヤラット、副王妃スーパヤレーWikimedia Commons Unknown photographer; included in collection of Willoughby Wallace Hooper · Public domain

王がいなくなったことは、軍事の敗北以上の傷をビルマの社会に残した。ビルマの王は、仏教の僧団を保護し、仏法を守る者でもあった。その役を担う者が消え、仏教の秩序も揺らいだ。インドの一州とされたことへの反発も強かった。20世紀に入ると、1906年に仏教青年会が作られ、1920年代には学生や僧侶の運動が広がり、やがてアウンサンらの独立運動へとつながっていく。ビルマは1937年にインドから切り離され、1948年に独立した(ビルマの独立)。

ティーボーは30年あまりを流刑の地で過ごし、1916年、ラトナギリで死んだ。スパヤラットはその後ラングーンへ戻ることを許されたが、王の墓はいまもラトナギリにある。ビルマの人々にとって、最後の王の亡骸がふるさとに戻っていないことは、植民地支配の記憶として残り続けている。

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