スペインのフィリピン支配
概要
レガスピが恒久的な拠点を築いた。マゼランの到達から44年になる。アジアでは東ティモールと並ぶ、カトリックが多数を占める国になる。国名は、のちのスペイン王フェリペ2世が皇太子だった1543年に、その名から付けられた。
場所
10.32°N 123.89°E · フィリピン
本文
1521年、スペイン王の命を受けたマゼランの船団が、太平洋を越えてフィリピン中部のセブ島にたどり着いた(マゼランの太平洋横断)。セブの首長フマボンとその民は洗礼を受けたが、マゼランは近くのマクタン島で首長ラプ=ラプの戦士たちと戦い、命を落とした。生き残った者たちは香料諸島を経て、1522年にスペインへ帰り着いた(世界一周の達成)。
その後、スペインは何度もこの海域へ船を送った。だが、どれも長く続く拠点を築けなかった。最大の問題は、帰り道が見つからないことだった。メキシコから西へ向かう貿易風に乗れば太平洋は渡れるが、逆風の中を東へ戻る航路が分からず、船は難破し、乗組員は飢えと病で倒れた。1543年に来航したビリャロボスの遠征隊は、島々を当時の皇太子、のちのフェリペ2世にちなんで「フィリピナス諸島」と名づけたが、やはり帰れずに終わっている。国名はここから来ている。

1564年、フェリペ2世の命で、メキシコから新しい遠征隊が出発した。指揮官はメキシコで役人を務めていたレガスピ、航海の案内役は、かつてアジアへの航海を経験した修道士ウルダネータである。1565年4月、一行はセブに着き、抵抗を退けて砦と町を築いた。焼き払われた村の家から、40年前にマゼランが首長の妻に贈ったとされる幼子イエスの像が見つかったといい、この像はいまもセブで篤く崇められている。
同じ年、ウルダネータの乗った船が、北へ大きく回り込んで偏西風をつかみ、太平洋を東へ渡ってメキシコに帰り着いた。帰り道が見つかったことで、フィリピンとメキシコを結ぶ定期の航路が開かれた。これがのちに250年続くガレオン船の貿易になる(マニラ・ガレオン貿易)。アメリカ大陸の銀がマニラに運ばれ、中国の絹や陶磁器と交換された。

レガスピはやがて、より豊かな北のルソン島へ目を向けた。1570年から翌年にかけて、イスラームを奉じる首長が治めていたマニラを攻め落とし、1571年にここをスペイン領の都とした。マニラには中国の商人が大勢集まり、城壁の外に彼らの町ができた。
フィリピンには、アメリカ大陸のアステカやインカのような大きな王国が無かった。人びとは「バランガイ」と呼ばれる数十から数百戸の共同体に分かれて暮らし、海辺や川沿いに散らばっていた。スペインは、首長たちを一つずつ従わせ、あるいは味方につけて、支配を広げていった。兵の数は少なく、征服は大規模な戦争よりも、交渉と小さな戦いの積み重ねで進んだ。

支配の前面に立ったのは、修道会だった。アウグスティノ会、フランシスコ会、イエズス会、ドミニコ会の修道士たちが村々に入り、教会を建て、言葉を学んで布教した。散らばって暮らしていた人びとは、教会と広場を中心とする町に集め住まわされた。教会の鐘の音が聞こえる範囲に住まわせる、というこの集住政策で、島々の集落の形は大きく変わった。修道士たちは村の教育や行政にまで力を持ち、のちに支配の手先として強い反発も受けることになる。
一方、南のミンダナオ島やスールー諸島では、スペインが来る前からイスラームが根づき、スルタンの国々があった。スペイン人は彼らを、イベリア半島のイスラーム教徒と同じく「モロ」と呼び、300年以上にわたって戦ったが、最後まで完全には従わせられなかった。北のキリスト教の世界と南のイスラームの世界の分断は、20世紀以降のミンダナオの紛争へとつながっていく。

スペインの支配は、19世紀末のフィリピン革命と、アメリカとの戦争に敗れた1898年まで、330年あまり続いた。いま、フィリピンの人口のおよそ8割がカトリックで、アジアでは東ティモールと並んでカトリックが多数を占める数少ない国である。人の名前や地名、食べ物、祭りにスペインの影響が色濃く残る一方で、言葉はタガログ語など土地の言葉が生き残り、スペイン語が広く話されることはなかった。