バングラデシュの独立
概要
同じ宗教でも、言葉と経済が違えば一つの国にならなかった。西パキスタン軍の弾圧で数十万から300万が死に、1000万人が国外へ逃れた。インドが介入して独立する。
場所
23.81°N 90.41°E · バングラデシュ
関わった人(1)
インディラ・ガンディーAD1917年11月19日–AD1984年10月31日 · 支援した側本文
同じ宗教を国のよりどころにしても、一つの国にはならなかった。バングラデシュの独立は、そのことを24年で示した。
1947年のインド・パキスタン分離で、イギリス領インドのムスリムが多い地域がパキスタンとして独立した。ところが、その地域は東西の二か所に離れていた。インダス川流域の西パキスタンと、ベンガル地方の東半分にあたる東パキスタンである。あいだにはインドの国土が1600キロ横たわっていた。国の人口の過半数は東に住んでいたが、首都も軍の司令部も官僚の中枢も西にあった。ベンガルは1905年にもベンガル分割を経験しており、分けられることへの記憶を持つ土地だった。

最初にぶつかったのは言葉である。東の人々はベンガル語を話し、西の指導層はウルドゥー語を国の言葉と考えていた。1948年3月、建国の父ムハンマド・アリー・ジンナーはダッカを訪れ、国語はウルドゥー語だけであるべきだと演説した。東では反発が広がった。
1952年2月21日、ダッカ大学の学生たちがベンガル語を国語の一つに加えるよう求めてデモに出た。警察が発砲し、学生を含む数人が死んだ。現場には後に記念の塔が建てられ、毎年この日には花が手向けられる。1956年の憲法でベンガル語も国語に加えられたが、この日の記憶は消えなかった。1999年、ユネスコの設立で生まれたユネスコの総会は、2月21日を国際母語デーと定めた。

経済の格差も大きかった。外貨を稼いでいたのは、東で作られるジュート(黄麻)の輸出だった。だが、その外貨で行われる投資や開発は、主に西に向かった。軍の将校や上級官僚にベンガル人は少なかった。1958年からは軍人のアユーブ・ハーンが国を治め、東の不満は抑え込まれた。1966年、東の政党アワミ連盟を率いるムジブル・ラフマンは、東の大幅な自治を求める6項目の要求を掲げ、逮捕と裁判を経て、かえって東の人々の英雄になった。
決定的な引き金は1970年に重なった。11月、ボーラ・サイクロンが東パキスタンの沿岸を襲い、30万から50万人が死んだとされる。中央政府の救援は遅く、東では「西は我々を見捨てた」という怒りが噴き出した。その翌月、パキスタンで初めての普通選挙による総選挙が行われた。アワミ連盟は東の議席のほぼすべてを取り、それだけで国会の過半数を得た。西で第一党になったのはブットの人民党だった。

本来なら、ムジブが首相になる。だが大統領ヤヒヤー・ハーンは、ブットらの反対を受けて国会の召集を延ばした。1971年3月7日、ムジブはダッカの競馬場に集まった大群衆の前で「今度の闘いは解放の闘いだ」と演説し、市民に不服従を呼びかけた。交渉は続けられたが、その裏で西から兵が空と海で送り込まれていた。
3月25日の夜、軍は「サーチライト作戦」を始めた。ダッカ大学の寮や、警察の詰め所、ヒンドゥー教徒の住む地区が攻撃された。ムジブは逮捕されて西へ連行された。翌26日に独立が宣言され、この日はいまもバングラデシュの独立記念日になっている。離反したベンガル人の兵士や学生、農民は解放軍(ムクティ・バヒニ)を作り、ゲリラ戦を始めた。

その後の9か月で起きたことの規模は、いまも確定していない。死者は数十万から300万まで、推計に大きな幅がある。300万はバングラデシュ政府の数字で、研究者のあいだではより少ない見積もりも多い。数の争いはそれ自体が政治的な対立の種になっている。数十万の女性が性暴力を受けたとされ、ヒンドゥー教徒は特に狙われた。戦争の最後の局面、12月14日前後には、大学教員や医師、記者など多くの知識人が連れ去られて殺された。
約1000万人がインドへ逃れた。インド東部の州には難民の野営地が広がり、インドの財政を圧迫した。首相インディラ・ガンディーは各国を回って窮状を訴え、同時に解放軍に訓練と武器を与えた。8月にはソ連と平和友好協力条約を結び、背後を固めた。ニューヨークでは、元ビートルズのジョージ・ハリスンらが難民救援のための慈善演奏会を開いている。
冷戦の構図がこの戦争を複雑にした。アメリカの大統領リチャード・ニクソンと補佐官ヘンリー・キッシンジャーは、中国との秘密の接触にパキスタンを仲立ちとして使っていた。そのためパキスタン政府を強く批判しなかった。ダッカのアメリカ総領事館は、現地で起きていることを「選択的なジェノサイド」と呼ぶ電報を本国に送ったが、政策は変わらなかった。翌1972年のニクソン訪中は、この時期の外交の延長にある。

12月3日、パキスタン空軍がインド西部の基地を攻撃し、インドは全面的に参戦した。インド軍と解放軍は東パキスタンに一斉に進み、12月16日、ダッカでパキスタン軍の司令官が降伏文書に署名した。約9万人が捕虜になった。開戦から13日で決着したことから、十三日戦争とも呼ばれる。アメリカは空母をベンガル湾に向かわせたが、戦局には関わらなかった。
1972年1月、ムジブは釈放されて帰国し、新しい国の指導者になった。国の名はバングラデシュ、「ベンガル人の国」である。だが独立後の道は平坦ではなかった。戦争で荒れた国土に飢饉が重なり、1975年8月、ムジブは軍の一部のクーデターで家族の多くとともに殺された。国外にいて難を逃れた娘のシェイク・ハシナは、のちに長く首相を務めた(2024年、広がった抗議のなかで辞任し国外へ逃れた)。

1971年の出来事をどう呼び、誰がどう裁くかは、いまもバングラデシュとパキスタンのあいだで、またバングラデシュの国内で、争われている。21世紀に入って戦争犯罪を裁く法廷が開かれたが、その進め方には国内外から批判もあった。宗教を一つにしても、言葉と富の分け方が不公平なら国はまとまらない。そのことを、数十万から数百万の命と引き換えに示したのが、この独立だった。