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Event / できごと

江華島条約

Treaty of Ganghwa
AD1876年2月27日
重要度 5

概要

前年、日本の軍艦雲揚号が江華島の砲台を挑発して砲撃を受け、これを口実に開国を迫った。ペリーの手口を、22年後に、日本が使った。朝鮮を「自主の国」と規定し(清の宗主権を否定するため)、釜山・元山・仁川を開き、日本に領事裁判権と、関税自主権の放棄を認めさせた。不平等条約を結ばされた国が、次に、不平等条約を結ばせた。

場所

江華島
37.75°N 126.48°E · 韓国

本文

1863年、高宗が12歳で即位した。父・興宣大院君が摂政。彼は、両班の力を削り、書院を整理し、そして鎖国を続けた。1866年、フランス人宣教師9人と朝鮮人信徒数千人を処刑した(丙寅教獄)。同じ年、フランス艦隊が江華島を攻めた(丙寅洋擾。フランスは撤退し、外奎章閣の書籍を持ち去った)。1871年、アメリカ艦隊(辛未洋擾。ジェネラル・シャーマン号事件の報復)。どちらも撃退した。大院君は全国に斥和碑を立てた。「洋夷侵犯 非戦則和 主和賣國」。

1873年、高宗が親政を始め、大院君が退いた。閔妃(明成皇后)の一族が政権を握った。

日本。1868年の明治維新の後、朝鮮に国交の樹立を求める文書を送った。文書に「皇」「勅」の字が使われていた(中国の皇帝だけが使う字)。朝鮮は受け取りを拒んだ。日本国内で「征韓論」(1873年、西郷隆盛らが主張し、内治優先派に敗れて下野した)。

1875年9月20日、軍艦雲揚号が、江華島の沖に無断で入り、飲料水を求めると称して小舟を陸へ向かわせた。朝鮮側の砲台が撃った。雲揚号は艦砲で応じ、永宗島に上陸して、砲台を破壊し、35人を殺し、大砲38門を奪った。日本側の死者1。

日本は、この事件を「朝鮮による無法な攻撃」として、謝罪と開国を要求した。

1876年2月、黒田清隆を全権として、軍艦6隻、兵800を江華島に送った。交渉と同時に、示威。

2月27日、江華府の練武堂で調印。「日朝修好条規」(江華島条約)。12款。

第1款。「朝鮮国は自主の邦にして、日本国と平等の権を保有せり」。

——「自主の邦」。これは朝鮮を尊重する文言ではない。朝鮮が清の冊封を受けていることを否定し、清の介入を排除するための規定だった。

第4・5款。釜山(既に開いていた)に加えて、2港を開く(元山1880年、仁川1883年)。

第7款。日本が朝鮮の沿岸を自由に測量できる。

第10款。日本人が朝鮮の開港場で罪を犯した場合、日本の官員が日本の法で裁く(領事裁判権)。

そして、附録と通商章程(同年8月)で、日本の貨幣の流通と、無関税の貿易が認められた(関税自主権の否定)。米の輸出の自由も。

22年前、1854年3月31日、ペリーの艦隊の砲の下で、日本が日米和親条約を結んだ。そのとき使われた手口——測量と示威、砲撃の口実、そして不平等条項——を、日本が朝鮮に対して使った。

朝鮮側は、当時、「条約」という国際法の枠組みを十分に理解していなかった、と後の研究は指摘する。交渉に当たった申櫶は、領事裁判権と無関税を、それほど重大とは考えなかった(伝統的な東アジアの外交では、外国人の犯罪は本国が裁くのが普通で、関税という制度自体が馴染みがなかった)。

その後。1882年、壬午軍乱。1884年、甲申政変。1894年、東学と日清戦争。1895年、閔妃殺害。1897年、大韓帝国。1904年、日露戦争。1905年、第二次日韓協約(保護国化)。1910年、併合。

江華島の砲台の跡は、いまも残っている。

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