江華島条約
概要
前年、日本の軍艦雲揚号が江華島の砲台を挑発して砲撃を受け、これを口実に開国を迫った。ペリーの手口を、22年後に、日本が使った。朝鮮を「自主の国」と規定し(清の宗主権を否定するため)、釜山・元山・仁川を開き、日本に領事裁判権と、関税自主権の放棄を認めさせた。不平等条約を結ばされた国が、次に、不平等条約を結ばせた。
場所
37.75°N 126.48°E · 韓国
本文
19世紀の朝鮮は、清を宗主と仰いで冊封を受け、日本とは対馬の宗氏を通じて限られた交わりを持つほかは、外の国との行き来をほとんど閉ざしていた。1863年、12歳の高宗が王位に就くと、父の興宣大院君が実権を握った。大院君は両班の私塾である書院を整理して王権を立て直す一方、西洋の国々とキリスト教を強く警戒した。
1866年、大院君はフランス人の宣教師9人と多くの朝鮮人の信徒を処刑した。報復にやって来たフランスの艦隊は、ソウルへの入口にあたる漢江の河口の江華島を占領したが、朝鮮軍の抵抗にあって引き揚げた。撤退の際、島にあった王室の書庫から多くの書物を持ち去っている(この書物が韓国に戻ったのは2011年のことである)。同じ年、平壌の大同江をさかのぼって通商を迫ったアメリカの商船が焼き払われ、1871年にはその件を問うアメリカの艦隊が江華島を攻めた。これも朝鮮は退けた。大院君は全国に石碑を立て、西洋の侵略に対して戦わずに和を結ぶのは国を売ることだ、と刻ませた。
その間に、隣の日本は大きく変わっていた。明治維新ののち、新しい政府は朝鮮に国交の改めを求める書簡を送ったが、そこには「皇」や「勅」といった、中国の皇帝にだけ許される文字が使われていた。朝鮮は、日本が自分たちを下に置こうとしていると受け取り、書簡の受け取りを拒んだ。日本では、武力で朝鮮を開かせるべきだという征韓論が高まり、1873年には、西郷隆盛の朝鮮への派遣をめぐって政府が割れた(征韓論政変)。西郷らは政府を去ったが、それは朝鮮への強硬策そのものを捨てたことを意味しなかった。同じ1873年、朝鮮では高宗が自ら政治をとるようになって大院君が退き、王妃(閔妃(明成皇后))の一族が力を持った。対外の姿勢はやや柔らかくなっていた。
1875年9月、日本の軍艦雲揚号が、朝鮮側に知らせないまま江華島の近くの水域に入り、測量を行った。飲み水を求めると称してボートを漢江の河口へ向かわせると、島の砲台が砲撃した。雲揚号は艦砲で応戦して砲台を壊し、さらに近くの永宗島に兵を上げて城を焼き、朝鮮の兵三十数人を殺し、大砲などを奪って引き揚げた。日本側の死者は一人だった。日本政府はこれを、朝鮮が日本の船をいわれなく撃った事件として扱い、責任を問うことを口実に、国交と開港を迫ることにした。雲揚号の行動は、はじめから衝突を誘うものだったと見る研究者は多い。

1876年の初め、日本は黒田清隆を全権とし、井上馨を副使として、軍艦と兵を江華島へ送った。交渉の席の外では、軍艦が砲を構えて圧力をかけた。朝鮮側の代表は申櫶である。2月の末、江華府で日朝修好条規、いわゆる江華島条約が調印された。
条約は12か条から成る。第1条は、朝鮮国は自主の国であって、日本国と平等の権利を持つ、とうたった。朝鮮を尊重するように見えるこの言葉は、朝鮮が清の冊封を受けているという関係を否定し、清が朝鮮のことに口を出す根拠を奪うためのものだった。ほかに、以前から日本との窓口だった釜山に加えて二つの港を開くこと(のちに元山と仁川に決まる)、日本が朝鮮の沿岸を自由に測量できること、開港場で罪を犯した日本人は日本の官吏が裁くこと(領事裁判権)が定められた。同じ年の夏に結ばれた付属の取り決めと貿易の規則では、開港場での日本の貨幣の通用が認められ、輸出入の品に関税をかける規定は置かれなかった。日本の商人は、ほとんど税を払わずに商売ができることになった。
これは、日本自身がつい20年ほど前に味わった仕組みだった。1853年にマシュー・ペリーの艦隊が浦賀に来て(黒船来航)、翌年には大砲の前で日米和親条約が結ばれた。その後の通商条約で、日本は領事裁判権を認め、関税を自分で決める権利を失った。軍艦による威圧、衝突を口実にした交渉、そして相手の主権を削る条項。不平等な条約に苦しみ、その改正を国の悲願にしていた日本が、今度は同じやり方で朝鮮に不平等な条約を結ばせたのである。

朝鮮の側には、条約というヨーロッパ流の国際法の仕組みが十分に知られていなかった、とのちの研究は指摘する。外国人の争いはその国の者が裁くのが東アジアでは珍しくなかったし、輸出入に関税をかけるという考え方にもなじみが薄かった。交渉にあたった人々には、これが長く国を縛る取り決めになるという認識が乏しかったともいわれる。一方で朝鮮の宮廷の中にも、清に頼るだけではなく、外の国と交わって国を強くすべきだと考える開化派の官僚たちが育ち始めていた。
江華島条約は、朝鮮が近代の国際関係に組み込まれる入口になった。1882年にはアメリカと、続いてイギリスやドイツとも条約が結ばれる。だが、開港は朝鮮の中に新しい対立を生んだ。日本から入る品と、日本へ流れ出る米が暮らしを揺さぶり、1882年には待遇に不満を持つ兵士たちが日本の公使館を襲い、1884年には開化派が日本を頼って政変を起こして失敗する。朝鮮をめぐる日本と清の争いは、1894年の東学農民戦争をきっかけに日清戦争となり、日本の圧力のもとでの甲午改革、王妃が殺される乙未事変を経て、1910年の韓国併合へと続いていく。江華島の海辺には、いまも当時の砲台の跡が残っている。