人物

レフ・ワレサ

Lech Wałęsa
AD1943年9月29日 – ?
ポーランド重要度 5

概要

大工の子。造船所の電気工。1970年のストで解雇。1980年、柵を越えて委員長に。1981年、戒厳令で1年拘束。1983年、ノーベル平和賞。1989年、円卓。1990年、大統領。1995年、負けた。8人の子。「私は、政治家でなく、電気工」。

関わったできごと(1)

連帯の結成AD1980年8月31日 · 率いた

本文

レフ・ワレサは1943年9月29日、ドイツ占領下のポーランド中北部の村ポポヴォに生まれた。父は大工で、ドイツの強制労働に駆り出され、戦争が終わってまもなく、その時の病がもとで亡くなった。職業学校で電気技術を学んだワレサは、機械整備の仕事を経て、1967年、バルト海沿岸の港町グダンスクのレーニン造船所に電気工として入った。1969年にダヌタと結婚し、のちに8人の子をもうけた。

台湾総統と会見するレフ・ワレサ
台湾総統と会見するレフ・ワレサWikimedia Commons Taiwan Presidential Office · CC BY 4.0

1970年12月、政府が食料品の値上げを発表すると、造船所の労働者たちはストライキに立ち上がった。ワレサはストライキ委員会に加わった。デモは軍と警察に鎮圧され、沿岸の町々で数十人が殺された。この経験は、ワレサにとって生涯の原点になる。1976年、彼は政府に批判的な言動を理由に造船所を解雇された。その後も別の職場で働きながら、非合法の自由労働組合の運動に加わり、そこでもまた解雇された。秘密警察に何度も拘束された。

1979年6月、ポーランド出身の教皇が祖国を訪れた(ヨハネ・パウロ2世のポーランド訪問)。何百万人もの人々が集まり、共産党の許可なしに、これほど多くの人が一つの場所に集まれることを知った。翌1980年7月、政府が再び食肉の値上げを打ち出すと、各地でストライキが始まった。

1980年8月、ストライキ中にサインするワレサ
1980年8月、ストライキ中にサインするワレサWikimedia Commons [onbekend] · CC0

1980年8月14日、レーニン造船所の労働者たちが、解雇されたクレーン運転士アンナ・ヴァレンティノヴィチの復職を求めてストライキに入った。その朝、すでに造船所の職員ではなかったワレサは、塀を乗り越えて構内に入り、集まった労働者たちの前に立ったと伝えられる。彼はストライキの指導者に選ばれた。やがて周辺の工場や港の代表が集まって工場間ストライキ委員会が作られ、ワレサが委員長となった。委員会は、自由な労働組合を作る権利、ストライキの権利、言論の自由、政治犯の釈放など21か条の要求を掲げた。

8月31日、政府はこの要求を受け入れた。グダンスク合意である。ワレサは、教皇の肖像のついた大きな記念のペンで署名した。共産主義の国で、党から独立した労働組合が初めて認められたのである。9月、全国組織「連帯」が生まれ(連帯の結成)、ワレサはその議長となった。組合員はまもなく1000万人に達した。ポーランドの労働者のおよそ3人に1人である。口ひげをたくわえ、襟に聖母マリアのバッジをつけ、くだけた言葉で語る電気工は、世界中に知られる顔になった。

1985年10月、ポピエウシュコ神父の一周忌追悼ミサでのレフ・ワレサとタデウシュ・マゾヴィエツキ
1985年10月、ポピエウシュコ神父の一周忌追悼ミサでのレフ・ワレサとタデウシュ・マゾヴィエツキWikimedia Commons Official US Embassy Photographer · Public domain

1981年12月13日、ヤルゼルスキ将軍は戒厳令を布いた。戦車が街に出て、連帯は非合法化され、指導者たちは一斉に拘束された。ワレサも捕らえられ、ソ連との国境に近い山中の館などに約11か月間軟禁された。1983年、ノーベル平和賞が贈られた。出国すれば二度と帰国を許されないことを恐れたワレサは、オスロの授賞式に行かず、妻ダヌタが代わりに賞を受け取った。

1980年代の終わり、ポーランドの経済は行き詰まり、ソ連ではゴルバチョフが改革を進めていた。1988年、再びストライキの波が起きると、政府は連帯との話し合いに応じざるをえなくなった。1989年2月から4月にかけて、政府と反体制派の代表が円卓を囲んで交渉し、連帯の合法化と、部分的に自由な選挙の実施が決まった。6月の選挙で、連帯の候補者たちはワレサと並んで写った写真をポスターにして戦い、自由に争われた議席のほぼすべてを取った。8月、連帯の知識人マゾヴィエツキが首相に就き、東欧で初めての非共産党政権が生まれた。この年の秋、東欧の共産党体制は次々に倒れ、ベルリンの壁の崩壊に至る。

1989年11月、ワレサと非公式に会談するアメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュ
1989年11月、ワレサと非公式に会談するアメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュWikimedia Commons David Valdez · Public domain

1990年12月、ワレサは大統領選挙に勝ち、ポーランドの大統領になった。だが大統領としての5年間は、労働運動の指導者としての日々ほどうまくはいかなかった。財務相バルツェロヴィチが進めた急激な市場経済への移行で、物価は上がり、失業者が増えた。かつての連帯の仲間たちは分裂し、ワレサは議会や政府と衝突を繰り返した。彼の強引で気まぐれなやり方は、権威主義的だとも批判された。1995年の選挙では、かつての共産党の流れをくむ若いクファシニェフスキに僅差で敗れた。2000年に再び立候補したときの得票は、1パーセントほどにすぎなかった。

晩年のワレサには、「ボレク」の疑惑がつきまとった。1970年代の初め、ワレサが秘密警察に「ボレク」という名で情報を提供していたという疑いである。2016年、共産党政権時代の内務相キシュチャクの未亡人の家から関連文書が見つかり、国の記憶院は翌年、筆跡鑑定の結果、署名は本人のものだと発表した。ワレサは、若いころに何かに署名したことは認めながら、協力したことはないとし、文書は偽造だと主張している。

1993年4月、大統領執務室でビル・クリントンと会談するワレサ
1993年4月、大統領執務室でビル・クリントンと会談するワレサWikimedia Commons President (1993-2001 : Clinton). White House Photograph Office. (01/20/1993 - 01/20/2001) · Public domain

グダンスクの空港は2004年に「レフ・ワレサ空港」と名づけられ、造船所の跡には連帯の歴史を伝えるヨーロッパ連帯センターが建った。ワレサの評価は、ポーランドの中でも今なお割れている。それでも、1980年の夏、一人の電気工が造船所の塀を越えたことから、東欧の共産主義体制の終わりが始まったことは確かである。

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