ホネ・ヘケ
概要
ワイタンギ条約に最初に署名し、後にイギリスの旗竿を四度切り倒した。条約が約束と違うと分かったためになる。
関わったできごと(1)
ワイタンギ条約AD1840年2月6日 · 最初に署名したマオリの首長本文
1807年頃、ニュージーランド北島の北端に近いベイ・オブ・アイランズの内陸、パカラカで生まれた。北部の大きな部族連合ンガープヒの首長の家の出である。若いころは、叔父にあたる大首長ホンギ・ヒカに従って戦った。ホンギはイギリスで手に入れたマスケット銃で各地の部族を攻め、1820年代のニュージーランドは、銃を持つ部族が持たない部族を攻める「マスケット戦争」の時代だった。

ベイ・オブ・アイランズは、ヨーロッパの船が最初に足場を築いた土地でもあった。捕鯨船が水と食料と女性を求めて寄港し、港町コロラレカは「太平洋の地獄の穴」と呼ばれるほどの無法の町になった。キリスト教の宣教師たちも学校を開き、ヘケはそこで読み書きを学んだ。1835年に洗礼を受け、ジョンのマオリ語の形であるホネを名乗った。妻のハリアタはホンギ・ヒカの娘だった。
1840年2月6日、イギリスの代理総督ホブソンと北島の首長たちとのあいだで、ワイタンギ条約が結ばれた。ワイタンギ条約に、最初に署名したマオリの首長になる。集会では反対の声も多く、署名をためらう首長たちを前に、ヘケは条約を受け入れるよう説いたと伝えられる。署名した理由として、イギリスとの交易の利益が挙げられる。宣教師たちへの信頼もあった。

その後、期待が外れた。1841年、首都はベイ・オブ・アイランズからオークランドへ移り、コロラレカの港が寂れた。植民地政府は港に関税をかけ、捕鯨船は寄りつかなくなった。マオリが自由に土地を売ることも禁じられ、政府だけが買い手になった。首長たちの暮らしを支えてきた交易の収入は細った。アメリカの領事などから、イギリスの旗が立ったことでマオリは奴隷にされた、という話も吹き込まれたとされる。
そして、条約の英語版とマオリ語版の食い違いが見えてくる。英語版では、首長たちはイギリス女王に「主権」を譲ることになっている。だが、首長たちが署名したマオリ語版では、譲ったのは「統治(カーワナタンガ)」で、首長の権威(ティノ・ランガティラタンガ)と土地はそのまま保証される、と読めた。主権を譲ったことになっている、と。

イギリスの旗竿を切り倒した。コロラレカを見下ろすマイキの丘に立つ旗竿は、ヘケにとって、マオリの土地の上にイギリスの支配が立っていることの印だった。1844年7月に最初に切り倒し、翌1845年の1月に二度。四度切り倒し、四度立て直された。三度目のとき、イギリス側は鉄の帯で補強し、衛兵を置いた。それでも切られている。1845年3月11日の四度目には、同じンガープヒの首長カウィティの兵がコロラレカの町を攻め、そのあいだにヘケの兵が旗竿を倒した。イギリスの守備隊と住民は船で逃れ、町は焼けた。
戦争になった。「旗竿戦争」と呼ばれる(ニュージーランド戦争)。イギリスは軍艦と兵を送り込み、ヘケと対立するンガープヒの首長タマティ・ワカ・ネネがイギリス側についた。マオリの側は、塹壕と地下の避難所を備えた砦(パー)を築いて大砲に耐え、オハエアワイの砦では、突撃したイギリス兵が大きな損害を出して退いた。1846年1月、ルアペカペカの砦がイギリス側に占領されて戦いは終わる。日曜日でマオリの守り手の多くが礼拝に出ていた隙を突かれた、という話が伝わる。

決着はつかず、和議になった。総督グレイは、ヘケとカウィティを罰せず、土地も取り上げなかった。旗竿は、その後しばらく立てられなかった。
ヘケは1850年8月6日、結核のため死んだ。43歳前後だった。1858年、カウィティの息子がイギリスとの和解の印として、マイキの丘に旗竿を立て直した。その旗竿はいまもそこに立っている。

条約の解釈をめぐる争いは、180年後のいまも続いている。1975年に条約の違反を調べる審判所が作られ、政府は各地の部族に土地の喪失を償い始めた。2014年、審判所は、ワイタンギで署名したンガープヒの首長たちは主権を譲ることに同意していなかった、とする報告を出した。ヘケが旗竿に斧を振るって示した疑問は、ニュージーランドという国の成り立ちそのものに関わる問いとして、いまも議論されている。