できごと

後三年の役

Later Three Years' War
AD1083年(永保3年)
重要度 4
後三年の役に関わる図版:Gosannen kassen ekotoba - Scroll 1 part 13
Gosannen kassen ekotoba - Scroll 1 part 13 Wikimedia Commons Hidanokami Korehisa · Public domain

概要

清原氏の内紛に陸奥守の源義家が介入し、金沢柵を兵糧攻めで落とした。雁の列が乱れて伏兵を知った、と伝える。朝廷は「私戦」と言って恩賞を出さず、義家が自分の財で報いた。武士は源氏に恩を感じ、清衡が平泉を始めた。「武士の棟梁」。

場所

金沢柵(横手)
39.31°N 140.57°E · 秋田県横手市

関わった人(1)

源義家AD1039年–AD1106年8月4日 · 勝った

本文

前九年の役(前九年の役)で安倍氏が滅びると、その勝利に最も貢献した出羽の清原氏が、奥六郡もあわせて、陸奥と出羽にまたがる大きな勢力になった。清原武則の後は子の武貞が継ぎ、武貞の子の真衡の代になる。武貞は、前九年の役で敗れた安倍頼時の娘を妻にしていた。この女性は、安倍氏に味方して処刑された藤原経清の妻で、経清とのあいだにできた男の子を連れて清原家に入った。この子がのちの清衡である。武貞と彼女のあいだには、家衡が生まれた。清原家の中には、血のつながらない兄弟が並ぶことになった。

真衡は家の当主として一族を厳しく従わせようとし、一族の長老の吉彦秀武と対立した。『奥州後三年記』によれば、真衡の養子の婚礼の祝いに、秀武が砂金を盛った盆を頭上に捧げて庭にひざまずいていたのに、真衡は碁に夢中で長いあいだ顧みなかった。屈辱を受けた秀武は砂金を庭にまき散らして帰り、兵を挙げた。秀武は清衡と家衡にも呼びかけ、真衡に対抗させた。

『後三年合戦絵巻』(金沢柵付近 1087年) 源義家軍は、雁の飛ぶ列の乱れから敵の伏兵(左下)を知った。
『後三年合戦絵巻』(金沢柵付近 1087年) 源義家軍は、雁の飛ぶ列の乱れから敵の伏兵(左下)を知った。Wikimedia Commons Hidanokami Korehisa · Public domain

1083年、源義家が陸奥守として着任した。真衡は義家を手厚くもてなして味方につけ、秀武を攻めようと出陣したが、その途中で急死した。義家は奥六郡を清衡と家衡に3郡ずつ分け与えた。家衡はこの分け方に不満を持ち、1086年、清衡の館を襲って、清衡の妻子や一族を皆殺しにした。生き残った清衡は義家を頼った。

義家は清衡とともに、家衡が籠る出羽の沼柵を攻めたが、冬の大雪と寒さで多くの兵が凍え死に、攻め落とせずに引き揚げた。家衡のもとには叔父の武衡が加わり、二人はさらに堅固な金沢柵(いまの秋田県横手市)に移った。1087年、義家は再び兵を進めた。都で役人を務めていた弟の義光は、兄の苦戦を聞いて、朝廷の許しを得ないまま官職を捨てて駆けつけたと伝えられる。

後三年の役を描いた絵巻
後三年の役を描いた絵巻Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

金沢柵の攻めについては、いくつもの話が伝わっている。義家が柵へ向かう途中、空を飛ぶ雁の列が乱れるのを見て、野に伏兵が潜んでいると見破り、待ち伏せの兵を討ち取ったという。かつて都で学者の大江匡房から兵法を学び、兵が野に伏すときは雁が列を乱すと教わっていたからだと語られる。義家はまた、戦いで勇敢だった者を座らせる「剛の座」と、臆病だった者を座らせる「臆の座」を設けて、兵たちを励ましたという。

柵の守りは固く、力攻めはうまくいかなかった。吉彦秀武の勧めで、義家は柵を囲んで兵糧攻めに切り替えた。柵の中の食糧が尽きかけると、女や子どもが逃げ出してきた。秀武は、彼らを逃がせば柵の中の食糧が長くもつと言い、義家はそれを受け入れて、逃げてきた者を目の前で殺させたという。柵の上から義家の父の頼義をののしった家衡の家臣の千任は、捕らえられた後、舌を抜かれた。11月、食糧の尽きた金沢柵は火を放たれて落ちた。家衡は身分の低い者に姿を変えて逃げようとして討たれ、武衡も捕らえられて斬られた。

源義家の肖像
源義家Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

義家は戦いの報告とともに、武衡と家衡の首を朝廷に送ろうとした。だが朝廷は、これは清原氏の一族の内輪もめに義家が勝手に加わった私的な戦いだとして、追討の命令を出さず、恩賞も与えなかった。義家は首を道に捨てて都に戻ったと伝えられる。義家は、従ってくれた東国の武士たちに、自分の財産から恩賞を与えた。武士たちは義家に恩義を感じ、源氏の主従の結びつきはいっそう強まった。

義家のもとに土地を寄進する者が相次ぎ、その力が大きくなりすぎることを恐れた朝廷は、1091年、諸国の民が義家に田畑を寄進することを禁じた。それでも義家は、のちに院の御所への昇殿を許されるなど、「天下第一の武勇の士」と呼ばれる存在であり続けた。武士の棟梁としての源氏の名声は、義家の時代に確立したのである。

ただ一人生き残った清衡は、実の父の姓である藤原に戻り、奥六郡と出羽の一部を受け継いだ。清衡は本拠を南の平泉に移し、そこに中尊寺を建てた。戦いで亡くなった敵味方の霊を慰め、奥州に仏の国を作ろうとしたのである。奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡と3代にわたって栄えたが、1189年、義家の子孫の源頼朝に滅ぼされる(奥州合戦)。頼朝は奥州に攻め入るにあたって、前九年の役の頼義の故事にならったと伝えられる。後三年の役の様子は、14世紀に作られた『後三年合戦絵詞』に描かれている。

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