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Event / できごと

後三年の役

Later Three Years' War
AD1083年(永保3年)
重要度 4

概要

清原氏の内紛に陸奥守の源義家が介入し、金沢柵を兵糧攻めで落とした。雁の列が乱れて伏兵を知った、と伝える。朝廷は「私戦」と言って恩賞を出さず、義家が自分の財で報いた。武士は源氏に恩を感じ、清衡が平泉を始めた。「武士の棟梁」。

場所

金沢柵(横手)
39.31°N 140.57°E · 秋田県横手市

関わった人(1)

源義家AD1039年–AD1106年8月4日 · 勝った

本文

前九年の役で安倍氏を滅ぼした清原氏が、奥六郡と出羽を持った。武則、武貞。武貞の子の真衡が家を継いだ。真衡には異母弟が二人いた。清衡(母は安倍頼時の娘で、前夫は藤原経清、経清は前九年で頼義に錆びた刀で首を切られた)と家衡。

1083年、源義家が陸奥守として着任した。真衡と、一族の吉彦秀武の争いが起き、真衡が急死した。義家は奥六郡を清衡と家衡に3郡ずつ分けた。家衡が不満で清衡の館を襲い、清衡の妻子を殺した。清衡は義家を頼った。

1086年、沼柵。義家は冬に囲んで負け、凍死者を出した。家衡は叔父の武衡と金沢柵(秋田の横手)に移った。1087年、義家は弟の義光(京から官を捨てて駆けつけた)と共に囲んだ。「雁の列が乱れた。伏兵がいる」と義家が気づいたという話。吉彦秀武の献策で兵糧攻め。城から女子供が逃げ出すのを、義家は斬らせた。中の食糧を減らすため。11月、落ちた。家衡は逃げて捕まって斬られ、武衡も。

義家は首を朝廷に送った。朝廷は「これは私戦だ」と言って受け取らず、恩賞を出さなかった。義家は自分の財で部下に報いた。関東の武士は義家に恩を感じ、義家に土地を寄進した。朝廷は1091年、義家への寄進を禁じ、義家の京への入京を禁じた。

生き残った清衡は藤原姓に戻り、平泉に移って、奥州藤原氏100年の始まり。義家は「武士の棟梁」。頼朝はこの記憶で東国を得た。

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