ボズワースの戦い

概要
リチャード3世が沼地で馬を失い、「馬を、馬を、私の王国を馬と引き換えに」はシェイクスピア。スタンリー家が途中で寝返った。王冠が茂みから拾われた。薔薇戦争の終わり、テューダーの始まり。遺骨は2012年、レスターの駐車場の下から出た。
場所
52.59°N -1.41°E · イギリス
本文
1485年8月22日、イングランド中部レスターシャーのボズワースの近くで、国王リチャード3世の軍と、王位を狙うヘンリー・テューダーの軍がぶつかった。数で勝る国王は、戦いの最中に味方の一部に背かれ、自ら敵の大将めがけて突撃して討ち死にした。戦場で命を落としたイングランドの王は、彼が最後である。30年にわたって王家の血筋を引く二つの家が王位を争った「薔薇戦争」は、ここで大きな区切りを迎え、テューダー朝が始まった。
争いの根は、15世紀の半ばにさかのぼる。百年戦争でフランスの領土をほとんど失ったイングランドでは、心を病みがちな国王ヘンリー6世のもとで政治が乱れ、ともにエドワード3世の血を引くランカスター家とヨーク家が王位をめぐって争い始めた。1455年に戦いが始まり、1461年にはヨーク家のエドワード4世が王位を奪った。戦いは続いたが、1471年にランカスター家のヘンリー6世とその一人息子が死ぬと、ヨーク家の支配は固まったかに見えた。

1483年4月、エドワード4世が40歳で急死した。後を継いだのは12歳の息子エドワード5世で、王の叔父にあたるグロスター公リチャードが、幼い王を守る護国卿になった。リチャードは兄の治世に北部を治め、忠実で有能な武将として知られていた。だが彼はまもなく、王の母方の一族を捕えて処刑し、幼い王とその弟をロンドン塔に移した。6月には、亡き兄の結婚はそれ以前に別の女性と結婚の約束をしていたために無効であり、二人の王子は王位を継ぐことのできない庶子だ、という主張が持ち出された。リチャードは議会に推される形で王位に就き、7月6日に戴冠した。
ロンドン塔の二人の王子は、その夏のうちに人前から姿を消し、二度と現れなかった。リチャードが殺させたのではないかという噂は、すぐに国内外に広がった。秋には、リチャードの即位を支えた有力者バッキンガム公までが反乱を起こしたが、失敗して処刑された。

反乱を企てた人びとが新しい王として担いだのが、ヘンリー・テューダーだった。彼の血筋は細いものだった。母マーガレット・ボーフォートは、エドワード3世の子ジョン・オヴ・ゴーントの子孫で、ランカスター家の流れを引いていた。父方の祖母は、ヘンリー5世の未亡人となったフランス王女キャサリンで、彼女がウェールズ出身の従者オウエン・テューダーと結ばれて生まれたのがヘンリーの父だった。ランカスター家の有力な男子が戦いの中で死に絶えたため、ヘンリーはランカスター家の望みを託される存在になり、14歳のころからブルターニュとフランスで亡命の暮らしを送っていた。1483年の暮れ、ヘンリーは、エドワード4世の娘エリザベス・オブ・ヨークと結婚すると誓った。ランカスターとヨークの二つの家を一つに結ぶという約束だった。
1485年8月7日、ヘンリーはフランス王の支援を受けて集めた2千人ほどの兵とともに、ウェールズ西端のミルフォード・ヘイヴンに上陸した。祖父の故郷ウェールズを通るあいだに、ウェールズの人びとが加わり、兵は5千人ほどに増えた。リチャードは中部のノッティンガムで待ち構え、1万を超える兵を集めて南へ向かった。

8月22日の朝、両軍はボズワースの近くで向き合った。戦場の脇には、トマス・スタンリーとその弟ウィリアムが率いる数千の兵が、どちらにも加わらずに陣取っていた。トマス・スタンリーはヘンリーの母マーガレットの夫、つまりヘンリーの義理の父だった。リチャードはスタンリーの裏切りを恐れ、トマスの息子を人質に取っていた。スタンリー兄弟は、勝つ側を見極めるまで動かなかった。
戦いが始まると、国王軍の先陣を率いたノーフォーク公が討たれた。国王軍の後方にいた北部の大貴族ノーサンバランド伯は、兵を動かさなかった。戦いの流れが定まらないなか、リチャードは、ヘンリーが少数の護衛だけを連れてスタンリーの陣の方へ向かっているのを見つけた。リチャードは近衛の騎士たちを率いて、ヘンリーめがけて一直線に突撃した。ヘンリーの旗手を自ら討ち取り、あと少しでヘンリーに手が届くところまで迫った。その時、ウィリアム・スタンリーの軍がヘンリーの側について突入した。リチャードは湿地の近くで馬を失い、囲まれて倒された。最後まで裏切りだと叫んでいたと伝える年代記もある。

伝承によれば、戦いの後、リチャードの王冠が茂みの中から拾い上げられ、トマス・スタンリーが戦場でヘンリーの頭に載せたという。リチャードの遺体は裸にされて馬の背に乗せられ、レスターの町に運ばれてさらされたあと、町のフランシスコ会の修道院にひっそりと葬られた。
ヘンリーはヘンリー7世として10月に戴冠し、翌1486年1月、約束どおりエリザベス・オブ・ヨークと結婚した。ランカスター家の赤い薔薇とヨーク家の白い薔薇を重ねた「テューダー・ローズ」が、新しい王家の印になった。ただし、両家がそれぞれ赤と白の薔薇を印として争ったという見方は、テューダー家が後から作り上げた物語の色が濃い。「薔薇戦争」という呼び名自体、19世紀の作家ウォルター・スコットの作品から広まったものである。ヘンリー7世はその後も王位を狙う反乱に悩まされ、1487年の戦いを本当の終わりとする見方もある。慎重な王は財政を立て直し、貴族の力を抑えて、息子のヘンリー8世、孫のエリザベス1世へと続く王朝の土台を築いた。

リチャード3世の姿を決定づけたのは、テューダー朝の時代に書かれた歴史と、それをもとにしたウィリアム・シェイクスピアの戯曲『リチャード三世』だった。舞台のリチャードは、背の曲がった醜い体で、甥たちを殺し、次々に人を陥れる悪の権化として描かれる。戦場で馬を失い、馬をくれ、馬を、馬の代わりに王国をやる、と叫ぶ場面はあまりにも有名だが、これはシェイクスピアの創作である。20世紀には、リチャードは勝者によって不当に悪者にされた有能な王だったと主張する人びとが会を作り、名誉の回復を訴えてきた。
リチャードの墓は、16世紀に修道院が解散されて壊されたとき、行方が分からなくなっていた。2012年、レスター市の社会福祉課の駐車場の下を発掘したところ、修道院の跡から一体の人骨が見つかった。背骨は大きく曲がり、頭蓋骨には武器による深い傷がいくつも残っていた。記録にある最期とよく一致した。翌年、リチャードの姉の子孫にあたるカナダ出身の男性らとのDNAの照合などから、その骨はリチャード3世のものと確かめられた。脊柱は確かに曲がっていたが、シェイクスピアの描いたような姿ではなかった。2015年3月、リチャードの遺骨はレスター大聖堂に改めて埋葬された。

ロンドン塔の王子たちを殺したのは本当にリチャードだったのか。それとも別の誰か、たとえばバッキンガム公やヘンリー7世だったのか。17世紀にロンドン塔で見つかった子どもの骨は王子たちのものとして葬られたが、その身元は確かめられておらず、決着はついていない。500年以上たった今も、この問いはイギリスで最も人気のある歴史の謎の一つであり続けている。