できごと

ギリシア独立戦争

Greek War of Independence
1821年 – 1829年
期間を持つできごと重要度 3
ロシア帝国大英帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国デンマークTuranペルシアスウェーデン=ノルウェー中央アジアの諸ハン国フラニ帝国(ソコト)オーストリア帝国エジプトスペインフランスアフガニスタンNejdモロッコエチオピア帝国AlgiersKaartaグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセンモシ諸王国両シチリア王国バイエルンカネム=ボルヌTunisサルデーニャ王国オマーンTripolitaniaイエメンハノーファーCyrenaica1821年アテナイ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている1821年の版図を描いています(34勢力)。

概要

古代への憧れからヨーロッパ中の知識人が支援した。オスマン帝国が内側から崩れはじめる。

場所

アテナイ
37.98°N 23.73°E · ギリシア・アッティカ

本文

1453年にコンスタンティノープル陥落が起きてから、ギリシア人の住む土地の大半は、350年以上にわたってオスマン帝国の支配の下にあった。帝国はイスラームの国だったが、キリスト教徒の臣民も、税を納めれば信仰を守ることを許されていた。ギリシア正教会の総主教は、帝国の正教徒全体のまとめ役を任された。都のファナル地区に住む裕福なギリシア人の家々は、帝国の通訳や属国の総督として高い地位に就いた。ギリシア人の商人は、地中海と黒海の交易で富を築いた。

18世紀の末から、その中に新しい考えが広まり始める。フランス革命が掲げた自由と国民の理念が、商人や知識人を通じてギリシア人の間に届いた。自分たちは正教徒であるだけでなく、古代ギリシアの栄光を受け継ぐ一つの民族であり、自らの国を持つべきだ、という考えである。1814年、黒海の港町オデッサで、ギリシア人の商人たちが秘密結社「友愛協会(フィリキ・エテリア)」を作り、蜂起の準備を始めた。

フランス革命に関わる図版:Anonymous - Prise de la Bastille
フランス革命Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

1821年の春、蜂起が始まった。まず2月、ロシア軍の将校だったアレクサンドロス・イプシランティスが、いまのルーマニアにあたるモルダヴィアで兵を挙げたが、期待したロシアの支援が得られず、まもなく敗れた。3月になると、ペロポネソス半島で農民と地方の有力者、正教会の聖職者が一斉に立ち上がった。ギリシアでは、3月25日が独立記念日とされている。

戦いは初めから残酷だった。10月、ギリシア側はペロポネソスの中心の町トリポリツァを攻め落とし、そこに住んでいたイスラーム教徒とユダヤ教徒を数千人規模で殺した。オスマン側も報復した。都では、反乱を防げなかったとして、正教会の総主教が復活祭の日に処刑された。1822年には、エーゲ海のキオス島にオスマン軍が上陸し、住民の多くを殺し、あるいは奴隷として売った。この悲劇はフランスの画家ドラクロワが『キオス島の虐殺』に描き、ヨーロッパの世論を揺さぶった。

カラジョルジェ・ペトロヴィチの肖像(ヴラディーミル・ボロヴィコフスキー画、1816年)
カラジョルジェ・ペトロヴィチの肖像(ヴラディーミル・ボロヴィコフスキー画、1816年)Wikimedia Commons Vladimir Borovikovsky · Public domain

ギリシアは1822年に独立を宣言したが、その内側はまとまっていなかった。地方の有力者、島の船主、軍の指導者たちは主導権を争い、1823年からは反乱軍どうしが内戦を起こすほどだった。

オスマン帝国のスルタンマフムト2世は、エジプトを治めていたムハンマド・アリーに援軍を求めた。近代的な軍を育てていたエジプトは、1825年、息子のイブラーヒームに大軍を率いさせてペロポネソスに上陸した。エジプト軍は各地を制圧し、1826年には、長く包囲に耐えていた西ギリシアの町ミソロンギが陥落した。反乱は追い詰められていった。

ミロシュ・オブレノヴィチの肖像(1848年)
ミロシュ・オブレノヴィチの肖像(1848年)Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

それでも独立運動が持ちこたえたのは、ヨーロッパの支援があったからだ。西欧の知識人にとって、ギリシアは自分たちの文明の源だった。民主政も哲学も演劇も、学校で学ぶ古典の言葉も、すべてギリシアから来た。その子孫が、イスラームの帝国の下で苦しんでいる。そう考えた人々は「ギリシア愛好者」と呼ばれ、各国で寄付を集め、義勇兵として海を渡る者もいた。

その最も有名な一人が、イギリスの詩人バイロンだった。すでにヨーロッパ中にその名を知られていたバイロンは、1823年、私財を投じて船と兵を整え、ギリシアに渡った。翌1824年4月、ミソロンギで熱病にかかり、戦場に立つことなく36歳で死んだ。その死はかえって大きな反響を呼び、ギリシアの大義に同情を集めた。

テペデレンリ・アリー・パシャ(アルバニアの支配者、1740年生–1822年没)
テペデレンリ・アリー・パシャ(アルバニアの支配者、1740年生–1822年没)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

実際のギリシアは、西欧の人々が思い描いた古代の姿とは違っていた。人々が話す言葉は古代のギリシア語から大きく変わり、信仰は正教会のキリスト教で、暮らしはオスマン帝国の社会の中で育まれたものだった。訪れた義勇兵の中には、理想とのずれに失望する者もいた。それでも、古代への憧れが支援を集めた。

決め手は列強の介入だった。イギリス、フランス、ロシアは、それぞれの思惑から、戦争を終わらせてギリシアに自治を与えるよう、オスマン帝国に求めた。帝国が拒むと、三国の艦隊が出動した。1827年10月、ペロポネソス西岸のナヴァリノの湾で、三国の連合艦隊は停泊していたオスマンとエジプトの艦隊とぶつかり、これをほぼ全滅させた。帆船どうしの大海戦としては、歴史上最後のものの一つとされる。翌年にはロシアがオスマン帝国と開戦し、1829年のアドリアノープル条約で、帝国はギリシアの自治を認めざるを得なくなった。

リガス・ヴェレスティンリス著の革命詩『戦歌』("Thurios" 1797年)の表紙。この印刷物の発行日は1798年。
リガス・ヴェレスティンリス著の革命詩『戦歌』("Thurios" 1797年)の表紙。この印刷物の発行日は1798年。Wikimedia Commons Rigas Velestinlis (Pheraios) · Public domain

1830年、ロンドンで結ばれた議定書で、ギリシアの完全な独立が列強に承認された。ただ、新しい国の領土はペロポネソスとアテネ周辺、いくつかの島々にすぎず、ギリシア人の多くは国境の外に残された。初代の統治者カポディストリアスは1831年に暗殺され、1833年には列強の決めたバイエルンの王子オットーが王として迎えられた。国境の外のギリシア人を取り込もうとする「大いなる理念」は、その後100年にわたってギリシアの政治を動かすことになる。

オスマン帝国の始まりから500年あまり、オスマン帝国にとって、ギリシアの独立は、キリスト教徒の臣民が帝国から離れて完全に独立した初めての例だった。それより先にセルビアが自治を勝ち取っていたが、独立までは至っていなかった。以後、バルカン半島では同じことが繰り返される。セルビア、ルーマニア、ブルガリア。民族ごとの国を作るという考えが、多くの民族と宗教が混じり合って暮らしていた帝国を、内側から解きほぐしていった。

動画(1)

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