メキシコ革命
概要
長期独裁への蜂起から始まり、土地改革を掲げる内戦になった。20世紀最初の大規模な社会革命。
場所
19.43°N -99.13°E · メキシコ・メキシコシティ
関わった人(1)
エミリアーノ・サパタAD1879年8月8日–AD1919年4月10日 · 南部の農民を率いた本文
1876年に軍事クーデターで権力を握ったポルフィリオ・ディアスは、途中の4年を除いて、1911年までメキシコを治めた。外国の資本を呼び込み、鉄道を敷き、鉱山や油田を開いて、国は大きく成長した。だがその陰で、村々が昔から共同で持っていた土地は、法律の名のもとに大農園や外国の会社に取り上げられた。農民の多くは土地を失い、大農園で借金に縛られて働いた。選挙は形だけで、反対する者は力で抑えられた。
1910年、80歳近いディアスは、また大統領選挙に臨んだ。対立候補の地主の息子フランシスコ・マデロは投票の前に投獄され、ディアスの当選が発表された。釈放されたマデロはアメリカへ逃れ、11月20日を期して武装蜂起を呼びかけた。北部ではパスクアル・オロスコやパンチョ・ビリャが兵を挙げ、南部のモレロス州では、村の土地を取り戻そうとする農民たちがエミリアーノ・サパタのもとに集まった。1911年5月、反乱軍が国境の町シウダー・フアレスを落とすと、ディアスは辞任してパリへ去った。

ディアスの時代のメキシコでは、国の土地の大半を、ほんの一握りの家族と外国の会社が持っていたとされる。モレロス州では、砂糖きびの大農園が周りの村の土地と水を飲み込み、村そのものが消えることもあった。村の代表に選ばれたサパタは、植民地時代の土地の権利書を手に、奪われた土地の返還を求めて戦い始めた。北部では、牧場や鉱山で働く人々、山賊あがりの男たち、国境の向こうと行き来する商人たちがビリャの軍に加わった。南と北で、革命に参加した人々の求めるものは違っていた。
マデロは大統領になったが、政治の改革を優先し、土地の問題には慎重だった。サパタは、奪われた土地を村に返すことを求める「アヤラ計画」を掲げて、マデロと決裂した。1913年2月、首都での戦闘のさなかに、軍の司令官ウエルタが寝返ってマデロを逮捕し、マデロは殺された。

ウエルタの独裁に対して、北部の州知事カランサが立ち上がり、ビリャ、オブレゴン、そして南のサパタがそれぞれ戦った。アメリカもウエルタを認めず、1914年にはベラクルスの港を占領した。ウエルタは1914年7月に国を去った。ところが勝った側はすぐに割れた。カランサとオブレゴンの側と、ビリャとサパタの側との内戦である。1914年の暮れ、ビリャとサパタの軍は首都に入り、ビリャが大統領の椅子に座っておどけてみせた写真が残っている。しかし二人は国を治める仕組みを持たず、翌1915年、オブレゴンは塹壕と機関銃でビリャの騎兵を打ち破った。
敗れたビリャは北部へ退き、1916年にはアメリカのニューメキシコ州の町コロンバスを襲った。アメリカは軍を送ってビリャを追わせたが、捕らえることはできなかった。ヨーロッパで第一次世界大戦が続く中、ドイツがメキシコに対米参戦を持ちかけた電報がイギリスに解読され、アメリカの参戦を後押ししたことも、この時期の出来事である。

勝ったカランサのもとで、1917年2月、ケレタロで新しい憲法が定められた。土地と地下の資源は国のものとし、大農園を分けて村に土地を与える道を開いた。8時間労働やストライキの権利も定め、教育から教会を切り離した。ロシアでロシア革命が起きる前のことで、当時の世界で最も進んだ社会的な内容を持つ憲法の一つと評価されている。
それでも暴力はやまなかった。1919年4月、サパタは、寝返りを装って近づいた政府軍の大佐に呼び出され、チナメカの農園で撃ち殺された。1920年にはカランサが、反乱を起こしたオブレゴンの軍に追われる途中で殺され、ビリャは1923年に、オブレゴンも1928年に暗殺された。1929年、後継者たちは革命の勢力を一つの政党にまとめ、この党は名を変えながら2000年まで政権を握り続けた。土地の分配が大規模に進んだのは、1930年代のカルデナス大統領の時代である。

10年に及ぶ動乱で、メキシコの人口は100万人前後、あるいはそれ以上減ったとされる。戦死だけでなく、飢えや病、アメリカへの移住も含んだ数で、正確なところは分からない。
革命は、メキシコという国の自画像も変えた。先住民と農民を国の主役として描く壁画が公共の建物を飾り(壁に描かれた歴史)、白い服に大きな帽子をかぶったサパタの姿は、土地を求める人々の象徴になった。1994年に南部チアパス州で蜂起した先住民の武装組織は、サパティスタを名乗っている。