できごと

ピープルパワー革命

People Power Revolution
AD1986年2月25日
重要度 4
ピープルパワー革命に関わる図版:Corazon Aquino inauguration
Corazon Aquino inauguration Wikimedia Commons Malacañang Palace archives · Public domain

概要

数十万の市民が装甲車の前に立ち、修道女がロザリオを持って先頭にいた。流血なしに20年の独裁が終わり、夫を暗殺された主婦が大統領になる。

場所

マニラ(エドサ通り)
14.65°N 121.05°E · フィリピン

関わった人(1)

コラソン・アキノAD1933年1月25日–AD2009年8月1日 · 大統領になる

本文

フェルディナンド・マルコスは1965年にフィリピンの大統領になり、1972年に戒厳令を敷いた(マルコスの戒厳令)。議会を閉じ、反対派を捕らえ、新聞を押さえた。戒厳令は1981年に形の上では解かれたが、権力は大統領と妻イメルダ、その取り巻きに集まったままだった。経済は借金で膨らみ、1980年代に入ると行き詰まっていた。

野党の指導者ベニグノ・アキノ(ニノイ)は、戒厳令で7年余り投獄され、心臓の手術のためにアメリカへ出ることを許されて亡命生活を送っていた。1983年8月21日、彼は帰国の飛行機でマニラ国際空港に着いた。兵士に囲まれてタラップを降りる途中で撃たれ、即死した。政府は、その場で射殺された男を共産ゲリラの単独犯としたが、それを信じる者は少なかった。葬列には100万とも200万ともいわれる人が集まった。

SEATO会議におけるマルコス大統領(左から4番目、1966年)
SEATO会議におけるマルコス大統領(左から4番目、1966年)Wikimedia Commons Frank Wolfe, White House Photo Office · Public domain

経済の混乱と国際的な批判のなかで、マルコスは任期を残して大統領選挙を前倒しすることを決めた。1986年2月7日の選挙に、野党はニノイの妻コラソン・アキノを立てた。政治の経験はなく、自分を「ただの主婦」と言っていた人である。黄色がその運動の色になった。

開票は不正の疑いにまみれた。2月9日、選挙管理委員会の集計所で、コンピューターの係員30人あまりが、数字が操作されていると抗議して席を立った。民間の選挙監視団体の集計ではアキノが上回っていたが、議会は2月15日にマルコスの当選を宣言した。カトリックの司教団は、この選挙は不正だと声明を出した。

マルコス大統領とイメルダ夫人、中央はアメリカのレーガン大統領
マルコス大統領とイメルダ夫人、中央はアメリカのレーガン大統領Wikimedia Commons U.S. government photographer · Public domain

2月22日、事態が一気に動いた。国防相フアン・ポンセ・エンリレと、国軍の副参謀総長フィデル・ラモスがマルコスから離反し、マニラ首都圏のエドサ通りに面した二つの基地に少数の兵と立てこもった。攻撃されれば持ちこたえられない。その夜、マニラ大司教のハイメ・シン枢機卿が、カトリック系のラジオ・ベリタスを通じて、基地の前に集まって彼らを守ってほしいと市民に呼びかけた。

翌日から、エドサ通りに人が集まり始めた。数は数十万、多いときには100万を超えたともいわれる。政府軍の戦車と装甲車が近づくと、人々は道に座り込んで前に立ちはだかった。修道女がロザリオを手に祈りながら最前列にいた。市民は兵士に花や食べ物、たばこを渡し、銃口に花を差した。発砲の命令は出されず、出されても実行されなかった。部隊のなかには、そのまま反乱側に移るものも出た。

コラソン・アキノ
コラソン・アキノWikimedia Commons Airman Gerald B. Johnson · Public domain

2月25日の午前、アキノは首都圏サンフアンのクラブ・フィリピーノで大統領就任の宣誓をした。同じ日の昼、マルコスもマラカニアン宮殿で宣誓をしたが、それを見届けた支持者はわずかだった。アメリカ政府はすでにマルコスを見放していた。その夜、マルコス一家はアメリカ軍のヘリコプターで宮殿を離れ、クラーク基地を経てハワイへ去った。宮殿には、イメルダが残した大量の靴が見つかった。

20年続いた体制が、ほとんど血を流さずに終わった。群衆が非暴力で軍の前に立ち、軍の側が撃たなかったことが大きい。この光景は世界に中継され、3年後の東ヨーロッパの体制転換(ベルリンの壁の崩壊)など、各地の非暴力の運動に影響を与えたといわれる。

フェルディナンド・マルコス(第2期大統領就任時の公式肖像、1969年)
フェルディナンド・マルコス(第2期大統領就任時の公式肖像、1969年)Wikimedia Commons Malacañang Press · Public domain

コラソン・アキノの政権は楽ではなかった。軍の一部は不満を抱え、1986年から1989年にかけてクーデター未遂がたびたび起きた。その数は7回とされることが多い。1987年には、大統領の任期を1期6年に限り再選を禁じる新しい憲法が定められた。アキノは1992年に任期を終え、後をラモスに譲った。農地改革や貧困の問題は大きくは変わらず、大地主や旧来の名家による政治も続いたという批判がある。

マルコスは1989年にハワイで死んだ。一家はのちに帰国して政治に戻り、2022年には息子のフェルディナンド・マルコス・ジュニアが大統領に選ばれた。エドサの記憶をどう語り継ぐかは、フィリピンでいまも揺れている。

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