人物

トマ・サンカラ

Thomas Sankara
AD1949年12月21日 – AD1987年10月15日(享年37)
ブルキナファソ重要度 3

概要

4年で識字率と予防接種を大きく伸ばし、自分の給与を下げ、公用車を最も安い車にした。側近のクーデターで殺される。

関わったできごと(1)

ブルキナファソの改名と改革AD1984年8月4日 · 大統領

本文

1949年12月、フランス領西アフリカのオートボルタ(上ヴォルタ)の小さな町ヤコで生まれた。父は第二次世界大戦でフランス軍の兵士として戦った人で、のちに地方の憲兵になった。家はカトリックで、両親は息子を神父にしたいと考えていたが、本人は軍人の道を選んだ。オートボルタは1960年にフランスから独立したが、内陸の乾いた国で、国民の大半は自給の農業で暮らし、識字率も平均寿命も世界で最も低い水準にあった。

ハーレムでのトマ・サンカラ(1984年)
ハーレムでのトマ・サンカラ(1984年)Wikimedia Commons The Militant/ Ernest Harsch · Public domain

若いサンカラは、マダガスカルの士官学校で学んだ。在学中の1972年、マダガスカルで学生と労働者が政権を倒す運動を目の当たりにし、政治に目を開かされたといわれる。フランスで空挺の訓練も受けた。1974年、隣国マリとの国境紛争で手柄を立て、国民的な人気を得る。ギターを弾き、オートバイを乗り回す、気さくで弁の立つ若い将校だった。

1970年代から80年代初めのオートボルタでは、クーデターが繰り返された。1981年、サンカラは軍事政権の情報相に任じられ、自転車で役所に通って話題になった。だが翌年、政権が報道を締めつけると、生放送で、人民の口をふさぐ者に災いあれ、と言い放って辞任した。1983年1月には首相に任じられたが、反帝国主義を唱える演説がフランスを警戒させ、5月に逮捕される。同年8月4日、盟友の軍人ブレーズ・コンパオレらが兵を動かして政権を倒し、サンカラは33歳で国家元首になった。

マリとブルキナファソが争ったアガシェール地帯の国境紛争を示す地図
マリとブルキナファソが争ったアガシェール地帯の国境紛争を示す地図Wikimedia Commons unknown, US Department of State · Public domain

翌1984年8月、彼は国の名を変えた(ブルキナファソの改名と改革)。オートボルタという名は、フランスがヴォルタ川の上流の土地という意味で付けた地理上の呼び名にすぎない。新しい国名ブルキナファソは、国内の主な言葉の一つモシ語の「ブルキナ(高潔な、まっすぐな)」と、別の言葉ジュラ語の「ファソ(祖国)」を組み合わせたもので、「高潔な人びとの国」を意味する。国民はブルキナベと呼ばれることになった。

それからの4年間に、サンカラは数多くの改革を一気に進めた。1984年には、2週間ほどの集中した運動で、250万人近い子どもたちに、はしか、髄膜炎、黄熱のワクチンを打った。国中で読み書きの教室を開き、村人の労働で学校と診療所を建て、砂漠が南へ広がるのを食い止めるため、1000万本の木を植えた。鉄道の延長工事も、外国の援助に頼らず、住民を動員して進めた。土地を国の管理に移し、農民に分け与えることも試みた。

女性の地位を変えることにも力を注いだ。強制的な結婚を禁じ、女性器の切除や一夫多妻を古い悪習として公然と批判してやめるよう呼びかけ、女性を閣僚や軍の要職に登用した。女性の解放なくして革命は無い、というのが彼の口癖だった。

自らの暮らしも切り詰めた。大統領の給与を月450ドルほどに下げ、閣僚の公用車を高級車のメルセデスから、国内で最も安い小型の車ルノー5に替えさせた。公務員にも綿の国産の布で仕立てた服を着るよう求めた。自分の肖像を役所に飾ることを禁じ、なぜかと聞かれると、この国には私のような者が何百万人もいるからだ、と答えたという。

外に向かっては、旧宗主国フランスや国際機関から距離を取った。1987年7月、エチオピアのアディスアベバで開かれたアフリカ統一機構の首脳会議で、アフリカの国々の対外債務について演説した。この債務は植民地支配の延長として押しつけられたものだと言い、もし私たちが返さなければ、貸した人たちは死なない、だがもし返せば、死ぬのは私たちだ、と語って、アフリカの国々が団結して支払いを拒むよう呼びかけた。もしブルキナファソだけが支払いを拒めば、私は次の会議にはいないだろう、とも言った。

その一方で、改革には強い反発もあった。各地に作られた革命防衛委員会は、しばしば権力を振りかざし、住民を監視した。旧来の政治家や役人は人民革命法廷で裁かれた。ストライキをした教員たちは大量に解雇され、労働組合は抑えつけられた。伝統的な首長たちの力を削ったことも、地方の反感を招いた。急ぎすぎる改革と、自分にも他人にも厳しい姿勢は、政権の内部にも亀裂を生んでいった。

1987年10月15日、首都ワガドゥグで閣議が開かれていたところへ、兵士たちが押し入り、サンカラと側近12人が射殺された。首謀したのは、4年前に彼を権力の座につけた盟友コンパオレだった。遺体はその夜のうちに墓地に埋められ、死亡証明書には「自然死」と書かれた。37歳だった。そのわずか1週間前、サンカラはチェ・ゲバラの没後20年の集会で、革命家を殺すことはできても、その思想を殺すことはできない、と語っていた。

コンパオレはその後27年にわたって国を治め、サンカラの改革の多くを元に戻した。2014年、憲法を変えてさらに居座ろうとしたコンパオレは、若者たちを中心とする大規模な抗議で国外に逃れた。抗議の人びとは、サンカラの写真を掲げていた。2022年、ブルキナファソの軍事法廷は、サンカラ殺害の罪で、欠席のままのコンパオレに終身刑を言い渡した。

サンカラは今も、「アフリカのチェ・ゲバラ」と呼ばれ、アフリカの若い世代の英雄であり続けている。清廉で、自立を掲げ、民衆の暮らしを変えようとした指導者として讃えられる一方で、言論や労働運動を抑えた権威主義の面を指摘する声もある。返さなくてよい債務を問う彼の演説は、のちの債務帳消しを求める国際的な運動(債務を帳消しにする運動)を先取りしたものとしても読まれている。

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