プエブロの反乱
概要
結び目を作った紐で日を合わせ、各集落が同時に蜂起してスペイン人を追い出した。北米で先住民が植民者を追い払った唯一の例で、12年続いた。
場所
35.69°N -105.94°E · アメリカ・ニューメキシコ州
関わった人(1)
ポペAD1630年頃–AD1692年頃 · 計画本文
1598年、フアン・デ・オニャーテの率いるスペイン人の一団が、メキシコから北へ進み、リオ・グランデ川の上流に入った。そこには石と日干し煉瓦の集落に暮らす人びとがいた。スペイン人は彼らを、集落を指す言葉からプエブロと呼んだ。チャコ・キャニオンを去った人びとの子孫たちである(チャコ・キャニオンの大集落)。翌年、アコマのプエブロが抵抗すると、スペイン人は集落を攻め落とし、捕らえた成年の男たちの片足を切り落とした。
スペインがこの地へ来たのは、偶然ではない。1521年にテノチティトランの陥落でアステカを倒したスペインは、メキシコを拠点に北へ版図を広げていた(スペイン帝国)。16世紀の半ばには、黄金の七つの都市の噂を追った探検隊がプエブロの土地まで来て、何も見つけられずに帰っている。オニャーテの遠征は、金ではなく、土地と改宗すべき人びとを求めるものだった。

1610年ごろ、サンタフェに植民地の町が置かれた。プエブロの人びとはトウモロコシや布を税として取られ、スペイン人の畑や家で働かされた。フランシスコ会の修道士たちは集落ごとに教会を建てさせ、昔からの祭りや踊りを禁じた。祭祀を行う半地下の部屋キヴァは踏み込まれ、仮面や祭具は焼かれた。総督と修道士は人びとの労働をめぐって争い、その争いの負担もプエブロにかかった。
1670年代には日照りが続き、飢えが広がった。遊牧のアパッチの襲撃も激しくなった。スペイン人の神は雨を降らせず、守ってもくれない。古い祭りを取り戻そうとする動きが強まると、1675年、総督は47人の祈祷師を魔術の罪で捕らえた。4人が命を落とし(3人が絞首刑、1人は自ら命を絶ったとされる)、残りは鞭で打たれた。武装したプエブロの男たちが総督の館に押しかけ、残った者たちは解放された。

その中に、オケ・オウィンゲの祈祷師ポペがいた(ポペ)。彼は北のタオスに移り、数年かけて計画を練った。プエブロの集落は数十あり、話す言葉も一つではない。互いに争ってきた歴史もある。それでも彼は、ほとんどの集落を一つの計画にまとめた。
日を合わせる道具は、結び目を作った紐だった。走り手が各集落に紐を届け、受け取った者は毎日一つずつ結び目をほどく。最後の結び目がほどかれた日に、いっせいに立ち上がる。文字を使わない、漏れにくい方法だった。それでも直前に二人の走り手が捕まり、計画はスペイン側に知られた。プエブロの指導者たちは予定を早め、1680年8月10日に蜂起した。

各地の集落で、修道士と入植者が襲われた。殺されたのはおよそ400人で、その中には、植民地にいた修道士33人のうち21人が含まれていた。生き延びた入植者はサンタフェに逃げ込んだが、町は包囲され、水を断たれた。8月21日、総督アントニオ・デ・オテルミンは2000人ほどの入植者を連れて町を出て、南のエル・パソまで退いた。
ポペは、スペインのものを捨てるよう命じたと伝えられる。教会と十字架を壊し、川で体を洗って洗礼の跡を消し、スペイン風の名前を捨て、教会で結ばれた夫婦は別れる。古い祭りが戻り、キヴァが再び開かれた。だが日照りもアパッチの襲撃も止まらず、集落どうしの対立も戻ってきた。ポペの権威は数年で衰え、1688年ごろに死んだとされる。

スペイン人が戻ってきたのは、12年後の1692年である。総督ディエゴ・デ・バルガスは大きな戦いをせずに多くの集落を服従させたが、1696年にも反乱が起き、鎮圧された。それでも、戻ってきたスペイン人は以前のやり方を改めた。強制労働の仕組みは廃され、プエブロの土地の権利が文書で認められ、修道士たちも古い祭りを黙認するようになった。外から来るコマンチやアパッチに対して、スペイン人とプエブロは手を組むことになる。
反乱は、北米の先住民が植民者を追い払った例として、最も成功したものの一つとされる。スペイン人が残した馬が平原の諸部族に広まるきっかけになったという説もある。2005年、ポペの石像がワシントンの連邦議会議事堂に、ニューメキシコ州を代表する像として置かれた。プエブロの人びとは、いまもリオ・グランデ川沿いの集落に住み、キヴァでの祭りを続けている。