マボ判決
概要
オーストラリアは無主の地だった、という法の建前を最高裁が覆した。原告本人は5か月前に死んでいる。
場所
-35.28°N 149.13°E · オーストラリア
関わった人(1)
エディ・マボAD1936年6月29日–AD1992年1月21日 · 原告本文
1788年、イギリスの船団がオーストラリアの南東岸に着き、入植が始まった(第一船団のボタニー湾到着)。そのとき大陸には、数万年前から人が暮らしていた(オーストラリア先住民の岩絵)。だがイギリスは先住の人々と条約を結ばず、土地を買い取ることもしなかった。この大陸は誰のものでもない土地、つまり「無主の地(テラ・ヌリウス)」だったから、王のものになった、と扱ったのである。この考えは、その後200年、オーストラリアの法の土台になった。
エディ・マボは1936年、オーストラリア大陸とニューギニア島のあいだ、トレス海峡に浮かぶマレー島(メール島)に生まれた。島の人々メリアムは、昔から畑を耕し、家ごとに土地を受け継いできた。マボは若くして島を出て、本土で船の仕事や鉄道の工事、サトウキビの刈り取りなどをして働いた。のちにクイーンズランド州タウンズビルの大学で庭師として勤めた。

1974年ごろ、マボは大学の歴史家たちと話していて、自分の島の土地が法の上では州の土地、つまり王のものだと知らされた。マボは驚き、信じなかったと伝えられる。自分の家の土地は、父から受け継いだものだったからである。
1982年、マボと島の仲間たち計5人が、メール島の土地に対する伝統的な権利の確認を求めて、オーストラリアの最高裁判所に訴えを起こした。クイーンズランド州は、1985年に法律を作って、もし島民に何らかの権利があったとしても、それは州の成立のときにさかのぼって消えた、と定めようとした。最高裁は1988年、この州法は人種差別を禁じる国の法律に反するとして退けた。
本題の審理は長かった。島の慣習や土地の分け方、家々の言い伝えを調べるために、別の裁判官が証言を聞き取った。マボ自身も、祖先から受け継いだ土地の境を証言した。だが、彼の主張のすべてが認められたわけではなく、マボが養子として土地を受け継いだという話は、証拠が足りないとされた。
1992年6月3日、最高裁は判決を下した。裁判官7人のうち6人が、入植の時点でオーストラリアが無主の地だったという前提を否定した。先住の人々は入植の前から土地への権利を持っていた。その権利、先住権原(ネイティブ・タイトル)は、国がはっきりと消す行為をしない限り、いまも残っている、と認めたのである。メール島のメリアムの人々は、島の土地を占有し使う権利を持つ、と宣言された。
エディ・マボは、この判決を聞くことができなかった。その年の1月、がんで亡くなっていた。55歳だった。判決は彼の名で呼ばれるようになった。
判決は国中に大きな波紋を広げた。牧場主や鉱山会社は、土地の権利が揺らぐと反発した。先住民の側には、ようやく法が事実を認めたと受け止める声が多かった。キーティング首相は同じ年の暮れ、シドニーのレッドファーンで演説し、土地を奪い、子どもを親から引き離したのは私たちだった、と語った。翌1993年、先住権原を認める手続きを定める法律ができた。
ただし、判決で土地が戻ってきた人は多くない。都市や農地のように、国がすでに他人に土地を与えた場所では、権利は消えたものとされたからである。権利を認めてもらうには、入植の前から今まで、その土地とのつながりが途切れずに続いてきたことを示さなければならない。強制的に移住させられた人々ほど、それを示しにくいという矛盾がある。
オーストラリアでは、先住民が国勢調査に数えられるようになったのは1967年の国民投票(オーストラリア)のあとである。それから25年後、法は先住民がそこにいたこと自体を認めた。6月3日はいま「マボの日」と呼ばれている。マボの墓はタウンズビルにあったが、落書きで荒らされ、遺骨は故郷のメール島に移された。