1848年革命

概要
ヨーロッパ各地で同時に蜂起が起きた。ほとんどが鎮圧されたが、旧い秩序は元には戻らなかった。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(2)
カール・マルクスAD1818年5月5日–AD1883年3月14日 · この年に『共産党宣言』を出すメッテルニヒAD1773年5月15日–AD1859年6月11日 · 逃げた本文
1815年のウィーン会議の後、ヨーロッパは王と貴族の秩序に戻された。それを支えたのが、オーストリアの宰相メッテルニヒである。自由主義と民族主義を、秩序を乱すものとして押さえつけた。1830年にはフランスで七月革命が起き(七月革命)、ルイ・フィリップの王政ができたが、選挙権は一部の富裕層に限られていた。
1840年代の半ば、ヨーロッパは食べ物の危機に見舞われた。じゃがいもの疫病が広がり、アイルランドでは大飢饉になった(アイルランドのジャガイモ飢饉)。1846年と47年には麦も不作で、パンの値が跳ね上がった。続いて不況が来て、都市の職人や労働者が職を失った。そこへ、選挙権を求める中産階級の不満と、国を持たない民族の願いが重なっていた。
最初に火がついたのは1月のシチリアのパレルモだったが、ヨーロッパを動かしたのはパリである。2月22日、選挙制度の改革を求める集会が禁じられたことから、市民がバリケードを築いた。24日、ルイ・フィリップは退位してイギリスへ逃げ、共和政が宣言された。第二共和政である。臨時政府は21歳以上の男子すべてに選挙権を与え、植民地の奴隷制を廃止した。
知らせは数日から数週間でヨーロッパ各地に届いた。3月13日、ウィーンで学生と市民が蜂起し、30年以上権力を握ってきたメッテルニヒは辞任してイギリスへ逃れた。3月15日にはハンガリーのペシュトで若者たちが立ち、コシュートらの率いる議会が、自前の政府を持つ改革を認めさせた。3月18日にはベルリンで市街戦が起き、プロイセン王は軍を引かせて憲法を約束した。同じ日、オーストリア支配下のミラノでも市民が5日間戦って守備隊を追い出した。プラハでは、チェコ人がスラヴ人の会議を開いた。

要求は場所によって違った。フランスでは共和政と社会の改革、ドイツとイタリアでは小国に分かれた国土の統一、ハンガリーやチェコではオーストリア帝国の中での民族の自立である。5月にはフランクフルトに、ドイツ全体の憲法を作るための国民議会が開かれた。選挙で選ばれた議員の多くは、大学教授や法律家、役人だった。
だが、同じ「自由」を求めた人々は、すぐに互いにぶつかった。パリでは、失業者を救うための国立作業場が6月に閉じられると、労働者が再び蜂起し、軍が鎮圧した。この「六月蜂起」で数千人が死に、中産階級と労働者の溝が決定的になった。12月の大統領選挙では、ナポレオンの甥のルイ・ナポレオンが圧勝し、のちに皇帝となる(ナポレオン3世)。ドイツ人はチェコ人やポーランド人の自立を認めず、ハンガリー人は国内のクロアチア人やルーマニア人の自立を認めなかった。民族の要求が互いに食い合い、旧い権力はそれを利用した。

1848年の夏から秋にかけて、オーストリア軍はプラハを砲撃し、イタリアで勝ち、10月にはウィーンを取り返した。フランクフルトの議会は1849年4月、プロイセン王にドイツ皇帝の冠を差し出したが、王は民衆から受ける冠を拒んだ。議会は解散させられた。ハンガリーは独立を宣言して戦い続けたが、1849年8月、ロシア軍の介入を受けて降伏した。ローマで宣言された共和国も、フランス軍に潰された。
革命はほぼすべて敗れた。それでも、元に戻らなかったものがある。オーストリアでは1848年9月に農民の賦役が廃止され、農民は領主への義務から解かれた。プロイセンには王が定めたものとはいえ憲法と議会が残った。フランスの男子普通選挙は、その後も続いた。そして、ドイツとイタリアの統一は、20年あまり後に、民衆の手ではなく王国の軍と外交によって実現する(イタリア統一、ドイツ帝国の成立)。

敗れた活動家の多くは国を出た。数千人がアメリカへ渡り、「フォーティエイターズ(48年組)」と呼ばれて、奴隷制反対の運動や南北戦争で役割を果たした者もいる。ロンドンに亡命した一人が、カール・マルクスだった。彼とエンゲルスが書いた『共産党宣言』は、パリの革命の直前にロンドンで刷られている。この年の出来事にはほとんど影響しなかったが、のちの時代に大きな影響を持つことになる。