メートル法の制定
概要
王の腕や足ではなく、地球そのものを基準にする。1791年、科学アカデミーの提案で、北極から赤道までの子午線の一千万分の一を一メートルと定めた。ドランブルとメシャンが、ダンケルクからバルセロナまでを、革命と戦争のただ中で六年かけて三角測量した。二人は捕らえられ、資金を絶たれ、それでも測り続けた。1795年の法で単位系が定まり、1799年に白金の原器が納められた。地球は真球ではなく、この定義による値は現在の一メートルより約0.2ミリ短い。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
ピエール・メシャンAD1744年8月16日–AD1804年9月20日 · 測量本文
革命前のフランスでは、長さや重さや量の単位が、土地ごとにばらばらだった。国じゅうに25万種類もの単位があったという言い方がされる。数字には誇張があるにしても、同じ名前の単位が町ごとに違う値を持っていたことは確かである。パリの「ピエ」(足)とリヨンの「ピエ」は長さが違い、穀物を量る升は領主ごとに違った。
しかも升を決めるのは領主で、年貢を取り立てるときの升と、種を貸し出すときの升が違うことさえあった。1789年、全国三部会のために各地で書かれた陳情書には、この不満が繰り返し現れる。一つの王、一つの法、一つの度量衡を、という願いである。
フランス革命は、この願いを、もっと大きな構想に変えた。どこか一つの国や王の体を基準にするのではなく、誰のものでもない自然を基準にする。標語は「あらゆる時代に、あらゆる人々に」だった。問題は、その自然の基準を何に取るかである。

一つの案は振り子だった。一往復に2秒、片道に1秒かかる振り子の長さを、長さの単位にする。ホイヘンスらが17世紀から唱えていた古い考えである。だが、重力の強さは緯度によって違い、振り子の長さも場所によって変わってしまう。そのうえ「秒」という、暦に基づく量を長さの定義に持ち込むことになる。
1791年3月、王立科学アカデミーの委員会は、地球そのものを選んだ。北極から赤道までの子午線の長さの1000万分の1を、新しい長さの単位とする。言い換えれば、地球を南北に一周する長さを4000万メートルとするのである。ここには政治もあった。

フランスはこの単位を世界に広めたかったから、フランスの何かを基準にすることはできない。地球なら誰も文句を言えない。ただし実際に測る子午線は、パリを通り、北はダンケルク、南はバルセロナに至る線が選ばれた。両端がほぼ海面の高さにあり、その間の緯度の差から全体の長さを推し量れる、というのが理由だった。
1792年6月、二人の天文学者がパリを発った。ジャン=バティスト・ドランブルはダンケルクから南のロデーズまでを、ピエール・メシャンはロデーズからバルセロナまでを受け持った。方法は三角測量である。山の頂や塔や教会の尖塔を結んで三角形を鎖のようにつなげ、その角度を精密に測る。
角度を測る道具には、ボルダが考案した反復式の測角儀を使った。そして三角形の一辺だけを、地面の上で実際に測る。この基線の測定には白金の物差しを使い、一本の基線を測り終えるのに一か月以上かかった。
二人が出発したわずか2か月後、パリでは王政が倒れた。9月には共和政が宣言され、翌1793年1月にはルイ16世が処刑され、やがて恐怖政治が始まる。そのさなかに、見慣れない器械を担いで教会の塔に登り、旗を立てたり明かりで合図を送ったりしている男たちが、怪しまれないはずがなかった。ドランブルは何度も地元の人々に捕らえられ、そのたびに委任状を見せた。

ところが委任状は王の名で出されたもので、かえって疑いを深めることになった。1793年の末には、度量衡の事業を率いていた学者たちの一部が、共和国にふさわしくないとして委員会から外され、ドランブルもその一人になった。資金は滞りがちで、測量は何度も中断した。
南のメシャンは、さらに過酷な目にあった。1793年、バルセロナの近くで、水をくみ上げる装置の事故に巻き込まれて重傷を負った。回復した頃、フランスとスペインが戦争を始め、彼は国に帰れなくなった。スペインで足止めされている間、メシャンはバルセロナの二つの地点、モンジュイックの砦と、町なかの宿屋で、星を観測して緯度を測っていた。

ところが、二つの値から計算した差が、二点の距離と合わない。食い違いは3秒角ほど、距離にして100メートルに近い。当時の観測の腕からすると、無視できない大きさだった。
メシャンは、この食い違いを公表しなかった。そして生涯、そのことに苦しみ続けた。手紙には、自分の誤りが仕事全体を台無しにするのではないかという不安が繰り返し書かれている。彼はのちに測量の延長のため再びスペインへ向かい、1804年、その地で熱病にかかって死んだ。食い違いの原因は、今日では、大気による光の屈折の扱いや、山の塊が重力で鉛直線をわずかに引き寄せることなど、当時の測り方では避けにくい要因にあったと考えられている。彼の腕が劣っていたわけではなかったが、メシャン自身はそれを知らないまま世を去った。

そうした苦難のなかで、単位の仕組みは先に形を整えていった。1795年4月7日(共和暦3年芽月18日)、国民公会は新しい度量衡の法律を定め、メートル、リットル、グラムといった単位の名前と、十の累乗で単位をつなぐ仕組みを決めた。大きい側の接頭語、キロ(千)、ヘクト(百)、デカ(十)はギリシア語から、小さい側のデシ、センチ、ミリはラテン語から取られた。面積も体積も重さも長さから導く。1立方デシメートルの水の重さを1キログラムとする、というようにである。
測量が終わったのは1798年だった。その結果をもとに長さが決められ、1799年6月22日、白金で作られたメートルの原器とキログラムの原器が、立法府に納められた。のちに「公文書館のメートル」と呼ばれるものである。
しかし、その値はわずかに違っていた。地球は完全な球ではなく、赤道の方向に少しふくらんでいる。そのふくらみの度合いが当時は正確に分かっておらず、測量にも誤差があった。いまの測地学の値で計算し直すと、北極から赤道までの長さは約1000万2000メートルになる。
つまり、このとき決めた1メートルは、本来の狙いより約0.2ミリ短かった。それでも値は改められなかった。基準にとって大事なのは、真の値に近いことよりも、一つに決まっていて誰もが同じものを使えることだったからである。
革命は、時間と角度まで十進法にしようとした。共和暦は1年を30日ずつの12か月に分け、1週間を10日とした。1日を10時間、1時間を100分、1分を100秒とする時刻も定められ、十進法の時計が実際に作られた。だが、暮らしの時間を変えることはできなかった。十進の時刻は2年足らずで義務でなくなり、共和暦も1806年に廃止された。直角を100等分する角度の単位も、測量のほかには根づかなかった。
メートル法そのものも、すぐには暮らしに入らなかった。人々は慣れた古い単位を使い続けた。1812年、ナポレオン・ボナパルトは、新しい単位を土台にしながら古い呼び名と分け方を許す「慣用の度量衡」を認め、事実上の後退をした。フランスでメートル法だけを使うことが強制されたのは、1840年のことである。革命から半世紀がたっていた。
それでも、この単位は国境を越えた。1875年、17か国がメートル条約に調印し、パリ近郊のセーヴルに国際度量衡局が置かれた。1960年には国際単位系が定められた。いまメートル法を公式に採用していない国は、アメリカ合衆国、リベリア、ミャンマーの三つとされる。そのアメリカも、科学や軍や医療ではメートル法を使っている。1999年には、地上の計算がヤード・ポンド法の単位で出した値を、探査機の側がメートル法の単位として受け取ったために、火星探査機が失われた。
メートルは、もう地球で決められてはいない。1960年にはクリプトン86という原子が出す光の波長を基準にし、1983年からは、光が真空中を2億9979万2458分の1秒の間に進む距離を1メートルとしている。光の速さは測るものではなく、決められた数になった。地球を測って得た長さのほうは、定義から姿を消した。それでも、私たちが使っている1メートルの長さそのものは、ドランブルとメシャンが革命と戦争のなかで測った、あの少し短い値を受け継いでいる。