できごと

パプアニューギニアの独立

Independence of Papua New Guinea
AD1975年9月16日
重要度 3
オーストラリアインドネシアビルマタイパプアニューギニアベトナムニュージーランドマレーシアラオスフィリピンカンボジアAD1975年9月16日ポートモレスビー
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1975年9月16日の版図を描いています(11勢力)。

概要

800を超える言語が話される土地が、一つの国として独立した。植民地の境界線がそのまま国境になった例で、統合はいまも課題として残る。

場所

ポートモレスビー
-9.44°N 147.18°E · パプアニューギニア

本文

ニューギニアは、グリーンランドに次いで世界で2番目に大きな島である。中央を高い山脈が貫き、低地は熱帯の密林と湿地に覆われている。人がこの島に住みはじめたのは少なくとも4万年以上前とされ、高地の谷では、およそ1万年から7000年前に、外から教わることなくタロイモやバナナの栽培が始まっていた(ニューギニア高地の農耕)。世界で農耕が独自に生まれた数少ない場所の一つである。険しい地形が谷と谷を隔て、人びとは小さな集団ごとに暮らし、それぞれの言葉を育てた。

19世紀の終わり、ヨーロッパの国々がこの島を分けた。西半分はオランダが取り、東半分は1884年に、北をドイツ、南をイギリスが領有した。南の英領はやがてオーストラリアに引き渡されてパプアと呼ばれ、北のドイツ領も第一次世界大戦でオーストラリアが占領し、のちに国際連盟の委任統治領になった。第二次世界大戦では日本軍が北岸に上陸し、ポートモレスビーを目指して山脈を越えようとして、オーストラリア軍と激しく戦った(ココダの戦い)。両軍の兵士の荷を運び、負傷兵を担いだのは、現地の人びとだった。

ポートモレスビーの町並み
ポートモレスビーの町並みWikimedia Commons MSchlauch · Public domain

外の世界が島の内側をほとんど知らなかったことを示す出来事がある。1930年代の初め、金を探すオーストラリア人の一行が中央高地の谷に分け入ったところ、そこには数十万を超える人びとが暮らす、よく耕された畑と村が広がっていた。高地には人がほとんど住んでいない、と思われていたのである。高地の人びとの側も、白い肌の人間を初めて見た。死者の霊が帰ってきたのだと考えた人も多かったという。この最初の接触は写真と映像に残され、半世紀後に当事者の証言とともにドキュメンタリー映画になった。この国の多くの人にとって、外の世界との出会いは祖父母の代の出来事なのである。

戦後、パプアとニューギニアはオーストラリアのもとで一つの行政区として扱われ、国際連合の信託統治の監督を受けた。1960年代、植民地の独立が世界の流れになるなかで、オーストラリアも自治と独立への準備を進めた。1964年に議会が開かれ、1973年に自治政府ができ、1975年9月16日、パプアニューギニアは独立した。首都ポートモレスビーの式典でオーストラリアの国旗が降ろされ、極楽鳥を描いた新しい国旗が揚がった。初代首相は、教師から政治家になったマイケル・ソマレで、のちに「国の父」と呼ばれる。国家元首には、英国の女王を戴いた。

ポートモレスビーの航空写真(1921年)
ポートモレスビーの航空写真(1921年)Wikimedia Commons Frank Hurley · Public domain

この国には800を超える言語がある。人口およそ1000万の国に、世界の言語の1割以上が集まっている計算で、国の人口に対する言語の数では世界一とされる。言葉の違う人びとが話すために、共通語として英語のほか、英語をもとに生まれたトク・ピシンと、南部の交易の言葉から育ったヒリ・モツが使われている。議会の討論もトク・ピシンで行われることが多い。人びとの暮らしを支えるのは、同じ言葉を話す仲間(ワントク)どうしの助け合いである。

独立は、国の内側の問題をそのまま引き継いだ。植民地の線で囲まれた土地に、共通の歴史も言葉も持たない数百の集団がいた。東のブーゲンビル島の人びとは、地理的にも文化的にも隣のソロモン諸島に近く、独立の直前に自分たちの共和国を名のったほどだった。島では1972年に巨大な銅山が操業を始め、国の輸出の大きな柱になったが、土地を奪われ、川を汚された地元の人びとの不満は強かった。1988年、銅山への破壊工作から始まった争いは、政府軍と独立派の内戦になり、銅山は閉じられ、10年あまりで多くの命が失われた(ブーゲンビル紛争)。和平の合意にもとづいて2019年に行われた住民投票では、97%を超える人が独立を選んでいる。

ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』は、ニューギニアの政治家ヤリが、独立前の1972年に投げかけた問いから始まる。なぜ白人はたくさんの物を作ってニューギニアに持ち込んだのに、私たちには自分たちの物がほとんどなかったのか(物語「『銃・病原菌・鉄』で読む歴史」)。その問いを抱えたまま、この国は独立から半世紀を迎えた。植民地が引いた線をそのまま国境にした国が、その内側で一つの国民になれるのか。アフリカの多くの国と同じ問いが、太平洋のこの国でも続いている。

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