デュランド・ライン
概要
イギリス領インドの外務長官モーティマー・デュランドと、アフガニスタンのアブドゥル・ラフマーン・ハーンが、境界を定める協定に署名した。2600キロ。目的は、ロシアとの間に緩衝地帯を作ることである。線は、パシュトゥーン人の居住域を、真ん中で切った。部族も、村も、時には家族も分かれた。アフガニスタンは、独立後、この線を認めていない。パキスタンは国境と主張する。地図の上の一本の線が、130年、係争であり続けている。
場所
34.53°N 69.17°E · アフガニスタン
本文
19世紀、イギリスとロシアは中央アジアで向き合っていた。ロシアは南へ勢力を広げ、ヒヴァ、ブハラ、コーカンドといったオアシスの国々を次々に支配下に収めた。インドを手にしていたイギリスは、ロシアがその北の山を越えてくることを恐れた。両国の駆け引きは、のちにグレート・ゲームと呼ばれる。その二つの帝国のあいだに挟まれていたのが、アフガニスタンだった。
イギリスはアフガニスタンに二度攻め込んだ。1839年に始まった第一次の戦争は、壊滅に終わった。1842年1月、カブールから撤退した英印軍と、それに従う家族や使用人ら合わせて1万数千人が、冬の峠道で襲われ、ほとんどが命を落とした。生きてジャララバードの砦に着いたのは軍医ウィリアム・ブライドン一人だった、と語られてきた。実際には捕虜となって生き延びた者もいたが、馬にもたれてたどり着く一人の軍医の姿は、エリザベス・バトラーの絵『軍の残骸』(1879年)にも描かれ、イギリスの記憶に深く刻まれた。1878年からの第二次の戦争では、イギリス軍は戦いには勝ったものの、国を占領し続けることはできなかった。

そこでイギリスは方針を変えた。アフガニスタンを占領せず、ロシアとのあいだの緩衝国にする。外交はイギリスが握り、内政には口を出さず、補助金と武器を与える。こうして1880年にアミール(君主)の座に就いたのが、アブドゥル・ラフマーン・ハーン(在位1880〜1901年)である。鉄のアミールと呼ばれた彼は、各地の部族の反乱を容赦なく押さえ込み、中央の権力を固めた。とりわけシーア派のハザーラ人に対する戦いは、大量の殺戮と奴隷化、強制移住を伴い、近年ではこれを民族の抹殺として扱う議論もある。その一方で、近代の中央集権の国家の土台を作った君主とも評価される。彼はイギリスの補助金を受け取りながら、国の独立を手放さないよう気を配った。
境界の問題は、とりわけ東の山岳地帯で厄介だった。インドとアフガニスタンのあいだの山地には、パシュトゥーン人の多くの部族が住み、どちらの支配も実際には及んでいなかった。イギリスは、どこまでが自分の側の勢力圏かをはっきりさせ、ロシアとのあいだの緩衝を固めたかった。

1893年秋、イギリス領インド政府の外務長官モーティマー・デュランドがカブールに入った。父のヘンリー・デュランドは、第一次アフガン戦争に工兵として加わった軍人である。交渉は10月から11月にかけて続き、11月12日、アブドゥル・ラフマーンとデュランドは境界を定める協定に署名した。線の長さはおよそ2600キロに及ぶ。アミールは、補助金の増額と武器の輸入の自由を得た。一方で、彼がどれだけ自由に選べたのかは、いまも議論が分かれる。協定の文書は英語で書かれ、のちにアフガニスタン側が、内容の理解が食い違っていたと主張する根拠の一つにもなった。実際の線は、その後の数年をかけて、両国の委員が現地で区切っていった。
線は、パシュトゥーン人の住む土地を真ん中で切った。パシュトゥーン人はアフガニスタンで最も大きな民族であり、線の東側、いまのパキスタン側にはそれ以上の数が住んでいる。同じ部族の夏の放牧地と冬の放牧地が別の国に分かれ、兄弟が違う国の住人になった、という話は繰り返し語られる。もっとも、当時この山地を実際に治める者はおらず、線が引かれても人々は行き来を続けた。いまも、多くの人が証明書を持たずに日々境界を越えている。
1919年、第三次アフガン戦争のあと、アフガニスタンはラワルピンディー条約で外交の自主権を取り戻した。イギリスは、この条約でデュランド・ラインも改めて確認されたと解釈したが、アフガニスタン側の受け止め方は違った。1947年、イギリス領インドは二つに分かれて独立し(インド・パキスタン分離)、線の東側はパキスタンとなった。アフガニスタンは、パキスタンの国際連合への加盟に、ただ一国反対票を投じた。パシュトゥーン人の住む土地の行方は住民自身が決めるべきだとして、パシュトゥーン人の自治や、アフガニスタンへの合流を唱える「パシュトゥーニスタン」の主張を掲げたのである。

それ以来、アフガニスタンのどの政権も、この線を国境として認めていない。王政も共和政も、ソ連が後ろ盾となった政権も、ムジャヒディンの政権も、二度のタリバン政権も、その間のカルザイとガニの政権も同じだった。2021年に権力を取り戻したタリバン(タリバンの復権)は、長くパキスタンの支援を受けてきたが、この点では譲っていない。パキスタンは、線は国際的に確定した国境だと主張する。2017年からは境界に沿って柵を築き、大部分ができたと発表した。二重の有刺鉄線の柵と監視塔が並び、アフガニスタン側は抗議を重ね、両国の兵が衝突したこともある。
アフガニスタン側ではしばしば、協定は100年で効力を失った、という説が語られる。しかし協定の文面に期限の定めは無く、この説は20世紀の後半に広まったもので、根拠は確かめられていない。

線のパキスタン側の山地は、独立後も長く特別な扱いを受けた。連邦直轄部族地域と呼ばれ、パキスタンの通常の法が及ばず、イギリスの植民地時代に作られた辺境犯罪規則が残っていた。一族の誰かの罪を部族全体に負わせる集団責任や、役人による裁判が、2018年まで続いた。この年、部族地域は隣の州に組み込まれた。
この境界の山地は、20世紀の後半から繰り返し戦場になった。1979年にソ連のアフガニスタン侵攻が始まると、線を越えてパキスタンへ逃れた難民は最も多い時期に300万人を超え、山地はムジャヒディンの拠点になった。パキスタンの難民キャンプの神学校で育った若者たちが、やがてタリバンの中心になる。2001年からのアフガニスタン戦争では、アルカイダやタリバンの戦士がこの山地に逃れ、アメリカの無人機による攻撃の舞台にもなった。

地図の上に線を引いたのは、それぞれの側の代表二人だった。その線の上に住んでいた人々は、交渉の席にいなかった。130年たったいまも、線は国境なのか、そうではないのかという問いに、二つの国は違う答えを返し続けている。