できごと

デュランド・ライン

The Durand Line
AD1893年11月12日
重要度 5
大英帝国ロシア帝国清イギリス領インド帝国オスマン帝国アラビアエジプトペルシアスウェーデン=ノルウェーラタナコーシン朝(シャム)アフガニスタンエチオピア帝国安南ルーマニアブルガリアブハラ・ハン国フランス領インドシナネパールHarer (Egypt)オマーン中央アジアの諸ハン国セイロンAD1893年11月12日カブール
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1893年11月12日の版図を描いています(22勢力)。

概要

イギリス領インドの外務長官モーティマー・デュランドと、アフガニスタンのアブドゥル・ラフマーン・ハーンが、境界を定める協定に署名した。2600キロ。目的は、ロシアとの間に緩衝地帯を作ることである。線は、パシュトゥーン人の居住域を、真ん中で切った。部族も、村も、時には家族も分かれた。アフガニスタンは、独立後、この線を認めていない。パキスタンは国境と主張する。地図の上の一本の線が、130年、係争であり続けている。

場所

カブール
34.53°N 69.17°E · アフガニスタン

本文

19世紀、イギリスとロシアは中央アジアで向き合っていた。ロシアは南へ勢力を広げ、ヒヴァ、ブハラ、コーカンドといったオアシスの国々を次々に支配下に収めた。インドを手にしていたイギリスは、ロシアがその北の山を越えてくることを恐れた。両国の駆け引きは、のちにグレート・ゲームと呼ばれる。その二つの帝国のあいだに挟まれていたのが、アフガニスタンだった。

イギリスはアフガニスタンに二度攻め込んだ。1839年に始まった第一次の戦争は、壊滅に終わった。1842年1月、カブールから撤退した英印軍と、それに従う家族や使用人ら合わせて1万数千人が、冬の峠道で襲われ、ほとんどが命を落とした。生きてジャララバードの砦に着いたのは軍医ウィリアム・ブライドン一人だった、と語られてきた。実際には捕虜となって生き延びた者もいたが、馬にもたれてたどり着く一人の軍医の姿は、エリザベス・バトラーの絵『軍の残骸』(1879年)にも描かれ、イギリスの記憶に深く刻まれた。1878年からの第二次の戦争では、イギリス軍は戦いには勝ったものの、国を占領し続けることはできなかった。

ヘンリー・モーティマー・デュランド。英領インドの外交官で、デュランド・ラインの名の由来
ヘンリー・モーティマー・デュランド。英領インドの外交官で、デュランド・ラインの名の由来Wikimedia Commons Clnedinst, Washington, DC (Barnett McFee Clinedinst, Jr., the official White House photographer at the time - see articl · Public domain

そこでイギリスは方針を変えた。アフガニスタンを占領せず、ロシアとのあいだの緩衝国にする。外交はイギリスが握り、内政には口を出さず、補助金と武器を与える。こうして1880年にアミール(君主)の座に就いたのが、アブドゥル・ラフマーン・ハーン(在位1880〜1901年)である。鉄のアミールと呼ばれた彼は、各地の部族の反乱を容赦なく押さえ込み、中央の権力を固めた。とりわけシーア派のハザーラ人に対する戦いは、大量の殺戮と奴隷化、強制移住を伴い、近年ではこれを民族の抹殺として扱う議論もある。その一方で、近代の中央集権の国家の土台を作った君主とも評価される。彼はイギリスの補助金を受け取りながら、国の独立を手放さないよう気を配った。

境界の問題は、とりわけ東の山岳地帯で厄介だった。インドとアフガニスタンのあいだの山地には、パシュトゥーン人の多くの部族が住み、どちらの支配も実際には及んでいなかった。イギリスは、どこまでが自分の側の勢力圏かをはっきりさせ、ロシアとのあいだの緩衝を固めたかった。

1983年、ホワイトハウスでのアフガン・ムジャヒディン代表とレーガン大統領
1983年、ホワイトハウスでのアフガン・ムジャヒディン代表とレーガン大統領Wikimedia Commons Michael Evans , see stamp and name on roll #C12820 · Public domain

1893年秋、イギリス領インド政府の外務長官モーティマー・デュランドがカブールに入った。父のヘンリー・デュランドは、第一次アフガン戦争に工兵として加わった軍人である。交渉は10月から11月にかけて続き、11月12日、アブドゥル・ラフマーンとデュランドは境界を定める協定に署名した。線の長さはおよそ2600キロに及ぶ。アミールは、補助金の増額と武器の輸入の自由を得た。一方で、彼がどれだけ自由に選べたのかは、いまも議論が分かれる。協定の文書は英語で書かれ、のちにアフガニスタン側が、内容の理解が食い違っていたと主張する根拠の一つにもなった。実際の線は、その後の数年をかけて、両国の委員が現地で区切っていった。

線は、パシュトゥーン人の住む土地を真ん中で切った。パシュトゥーン人はアフガニスタンで最も大きな民族であり、線の東側、いまのパキスタン側にはそれ以上の数が住んでいる。同じ部族の夏の放牧地と冬の放牧地が別の国に分かれ、兄弟が違う国の住人になった、という話は繰り返し語られる。もっとも、当時この山地を実際に治める者はおらず、線が引かれても人々は行き来を続けた。いまも、多くの人が証明書を持たずに日々境界を越えている。

1919年、第三次アフガン戦争のあと、アフガニスタンはラワルピンディー条約で外交の自主権を取り戻した。イギリスは、この条約でデュランド・ラインも改めて確認されたと解釈したが、アフガニスタン側の受け止め方は違った。1947年、イギリス領インドは二つに分かれて独立し(インド・パキスタン分離)、線の東側はパキスタンとなった。アフガニスタンは、パキスタンの国際連合への加盟に、ただ一国反対票を投じた。パシュトゥーン人の住む土地の行方は住民自身が決めるべきだとして、パシュトゥーン人の自治や、アフガニスタンへの合流を唱える「パシュトゥーニスタン」の主張を掲げたのである。

インド・パキスタン分離に関わる図版:Brit IndianEmpireReligions3
インド・パキスタン分離Wikimedia Commons John George Bartholomew · Public domain

それ以来、アフガニスタンのどの政権も、この線を国境として認めていない。王政も共和政も、ソ連が後ろ盾となった政権も、ムジャヒディンの政権も、二度のタリバン政権も、その間のカルザイとガニの政権も同じだった。2021年に権力を取り戻したタリバン(タリバンの復権)は、長くパキスタンの支援を受けてきたが、この点では譲っていない。パキスタンは、線は国際的に確定した国境だと主張する。2017年からは境界に沿って柵を築き、大部分ができたと発表した。二重の有刺鉄線の柵と監視塔が並び、アフガニスタン側は抗議を重ね、両国の兵が衝突したこともある。

アフガニスタン側ではしばしば、協定は100年で効力を失った、という説が語られる。しかし協定の文面に期限の定めは無く、この説は20世紀の後半に広まったもので、根拠は確かめられていない。

2007年、トルカム国境検問所の米兵
2007年、トルカム国境検問所の米兵Wikimedia Commons Pfc. Daniel M. Rangel, U.S. Army · Public domain

線のパキスタン側の山地は、独立後も長く特別な扱いを受けた。連邦直轄部族地域と呼ばれ、パキスタンの通常の法が及ばず、イギリスの植民地時代に作られた辺境犯罪規則が残っていた。一族の誰かの罪を部族全体に負わせる集団責任や、役人による裁判が、2018年まで続いた。この年、部族地域は隣の州に組み込まれた。

この境界の山地は、20世紀の後半から繰り返し戦場になった。1979年にソ連のアフガニスタン侵攻が始まると、線を越えてパキスタンへ逃れた難民は最も多い時期に300万人を超え、山地はムジャヒディンの拠点になった。パキスタンの難民キャンプの神学校で育った若者たちが、やがてタリバンの中心になる。2001年からのアフガニスタン戦争では、アルカイダやタリバンの戦士がこの山地に逃れ、アメリカの無人機による攻撃の舞台にもなった。

アフガン・パキスタン国境近くでのパキスタン国境警備隊と米DEA長官カレン・タンディ
アフガン・パキスタン国境近くでのパキスタン国境警備隊と米DEA長官カレン・タンディWikimedia Commons US Drug Enforcement Administration · Public domain

地図の上に線を引いたのは、それぞれの側の代表二人だった。その線の上に住んでいた人々は、交渉の席にいなかった。130年たったいまも、線は国境なのか、そうではないのかという問いに、二つの国は違う答えを返し続けている。

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