袁世凱の帝制
概要
孫文から大総統を受け取った袁世凱は、国会を解散し、国民党を禁じ、1915年、日本の二十一か条を受け入れ、12月、「中華帝国」の皇帝を宣言した。洪憲。雲南の蔡鍔が立ち、各省が独立を宣言し、日本もイギリスも認めなかった。83日で取り消し、6月、尿毒症で死んだ。彼の部下が軍閥になって、10年争った。
場所
39.90°N 116.41°E · 中国
関わった人(2)
袁世凱AD1859年9月16日–AD1916年6月6日 · 皇帝を宣言孫文AD1866年11月12日–AD1925年3月12日 · 大総統を渡した本文
袁世凱は、清の末に近代式の陸軍(北洋軍)を育てて力をつけた軍人だった。1911年の辛亥革命で各地の省が清から離れると、清の朝廷は彼を呼び戻して革命の鎮圧を任せた。だが袁は革命派と取引をする。皇帝を退位させる代わりに、自分が新しい共和国の長になる。南京で臨時大総統に就いていた孫文はこれを受け入れた。1912年2月に宣統帝が退位し、3月、袁は北京で臨時大総統に就任した。
共和国の約束は、すぐに試された。1913年の国会の選挙では、宋教仁が率いる国民党が第一党になった。宋は議会が政府を動かす仕組みを唱えていたが、3月、上海の駅で撃たれて死ぬ。袁の側が仕組んだとみられている。夏、孫文らは袁を倒そうと兵を挙げたが(第二革命)、2か月ほどで鎮められた。袁は10月に正式の大総統となり、11月に国民党を解散させ、翌1914年1月には国会そのものを停止した。5月に作らせた新しい約法で、大総統の権限は大きく広げられ、年末には任期10年、再選に制限なし、後継者は大総統が推して名を金の箱に納める、という定めまでできた。

1915年1月、日本は袁の政府に二十一か条の要求を突きつけた。山東のドイツの権益を引き継ぐことなどを求め、最も重い第5号には、政府に日本人の顧問を置くことまで含まれていた。5月7日、日本は最後通牒を出し、9日、袁の政府は第5号を除いて受け入れた。この日は「国恥記念日」として長く記憶される。
その年の夏から、帝制へ向かう動きが表に出た。8月、袁の法律顧問だったアメリカの政治学者グッドナウが、中国には共和制より君主制のほうが合う、という意見書を書いた。楊度らは籌安会を作って帝制を説いて回った。秋には各省から選ばれた国民代表が投票し、1993人が全員、君主制に賛成した。票は役人の監視のもとで集められたものだった。12月11日、立法院の役を兼ねる参政院が袁を皇帝に推し、袁は一度辞退してみせた後、12日に受けた。国号は中華帝国、年号は洪憲とし、1916年1月1日から用いることとした。即位の式は、結局行われなかった。

反発は南から起きた。北京で監視されていた雲南の軍人蔡鍔が脱出して雲南に戻り、12月25日、唐継尭らとともに独立を宣言して護国軍を起こした。蔡鍔の脱出には名妓の小鳳仙が力を貸したという話が有名だが、後に脚色されたところが大きいとされる。貴州、広西が続いた。日本、イギリス、ロシア、フランスは、すでに秋の段階で帝制を延ばすよう勧告していた。何より、袁の足元である北洋軍の段祺瑞と馮国璋が、帝制に冷ややかで動かなかった。
1916年3月22日、袁は帝制を取り消した。洪憲の年号が使われたのは、わずか83日だったとされる。袁は大総統の座にとどまろうとしたが、南の諸省は退位を求め、広東、浙江、陝西、四川、湖南が次々に独立を宣言した。6月6日、袁は尿毒症で死んだ。56歳だった。死の床で「彼が私をだめにした」と言ったと伝えられるが、「彼」が誰を指すのかは、楊度とも長男の袁克定とも言われてはっきりしない。
袁の死後、副総統の黎元洪が大総統を継ぎ、段祺瑞が国務総理として実権を握った。袁という重しを失った北洋軍は、段祺瑞の安徽派、馮国璋の流れをくむ直隷派、張作霖の奉天派などに分かれて争い始める。北京の政府はめまぐるしく入れ替わり、1917年には清の皇帝を復位させる騒ぎまで起きた。各地の軍人が自分の地盤を持って戦い合う軍閥の時代は、1928年に国民党が北京を取るまで続いた。この間の1919年に起きた五四運動は、二十一か条以来の屈辱への怒りが噴き出したものでもあった。

袁世凱は長く「国を盗んだ大泥棒」と呼ばれてきた。革命の成果を奪い、外国の要求に屈し、時代に逆らって皇帝になろうとした人物、という評価である。一方で近年は、清の末から軍や教育や警察の近代化を進めた実務家として、その働きを見直す研究もある。共和国の最初の数年に、選挙で生まれた議会が力で押しつぶされたことは、その後の中国の政治に長い影を落とした。