できごと

袁世凱の帝制

Yuan Shikai declares himself emperor
AD1915年12月12日
重要度 4
大英帝国ロシア帝国清イギリス領インド帝国モンゴル新疆チベット日本アフガニスタンフランス領インドシナラタナコーシン朝(シャム)フィリピンネパールAD1915年12月12日北京
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概要

孫文から大総統を受け取った袁世凱は、国会を解散し、国民党を禁じ、1915年、日本の二十一か条を受け入れ、12月、「中華帝国」の皇帝を宣言した。洪憲。雲南の蔡鍔が立ち、各省が独立を宣言し、日本もイギリスも認めなかった。83日で取り消し、6月、尿毒症で死んだ。彼の部下が軍閥になって、10年争った。

場所

北京
39.90°N 116.41°E · 中国

関わった人(2)

袁世凱AD1859年9月16日–AD1916年6月6日 · 皇帝を宣言孫文AD1866年11月12日–AD1925年3月12日 · 大総統を渡した

本文

袁世凱は、清の末に近代式の陸軍(北洋軍)を育てて力をつけた軍人だった。1911年の辛亥革命で各地の省が清から離れると、清の朝廷は彼を呼び戻して革命の鎮圧を任せた。だが袁は革命派と取引をする。皇帝を退位させる代わりに、自分が新しい共和国の長になる。南京で臨時大総統に就いていた孫文はこれを受け入れた。1912年2月に宣統帝が退位し、3月、袁は北京で臨時大総統に就任した。

共和国の約束は、すぐに試された。1913年の国会の選挙では、宋教仁が率いる国民党が第一党になった。宋は議会が政府を動かす仕組みを唱えていたが、3月、上海の駅で撃たれて死ぬ。袁の側が仕組んだとみられている。夏、孫文らは袁を倒そうと兵を挙げたが(第二革命)、2か月ほどで鎮められた。袁は10月に正式の大総統となり、11月に国民党を解散させ、翌1914年1月には国会そのものを停止した。5月に作らせた新しい約法で、大総統の権限は大きく広げられ、年末には任期10年、再選に制限なし、後継者は大総統が推して名を金の箱に納める、という定めまでできた。

中華帝国が領有権を主張していた地域
中華帝国が領有権を主張していた地域Wikimedia Commons Public domain

1915年1月、日本は袁の政府に二十一か条の要求を突きつけた。山東のドイツの権益を引き継ぐことなどを求め、最も重い第5号には、政府に日本人の顧問を置くことまで含まれていた。5月7日、日本は最後通牒を出し、9日、袁の政府は第5号を除いて受け入れた。この日は「国恥記念日」として長く記憶される。

その年の夏から、帝制へ向かう動きが表に出た。8月、袁の法律顧問だったアメリカの政治学者グッドナウが、中国には共和制より君主制のほうが合う、という意見書を書いた。楊度らは籌安会を作って帝制を説いて回った。秋には各省から選ばれた国民代表が投票し、1993人が全員、君主制に賛成した。票は役人の監視のもとで集められたものだった。12月11日、立法院の役を兼ねる参政院が袁を皇帝に推し、袁は一度辞退してみせた後、12日に受けた。国号は中華帝国、年号は洪憲とし、1916年1月1日から用いることとした。即位の式は、結局行われなかった。

「洪憲元年」と入った中華帝国の10文硬貨
「洪憲元年」と入った中華帝国の10文硬貨Wikimedia Commons Public domain

反発は南から起きた。北京で監視されていた雲南の軍人蔡鍔が脱出して雲南に戻り、12月25日、唐継尭らとともに独立を宣言して護国軍を起こした。蔡鍔の脱出には名妓の小鳳仙が力を貸したという話が有名だが、後に脚色されたところが大きいとされる。貴州、広西が続いた。日本、イギリス、ロシア、フランスは、すでに秋の段階で帝制を延ばすよう勧告していた。何より、袁の足元である北洋軍の段祺瑞と馮国璋が、帝制に冷ややかで動かなかった。

1916年3月22日、袁は帝制を取り消した。洪憲の年号が使われたのは、わずか83日だったとされる。袁は大総統の座にとどまろうとしたが、南の諸省は退位を求め、広東、浙江、陝西、四川、湖南が次々に独立を宣言した。6月6日、袁は尿毒症で死んだ。56歳だった。死の床で「彼が私をだめにした」と言ったと伝えられるが、「彼」が誰を指すのかは、楊度とも長男の袁克定とも言われてはっきりしない。

袁の死後、副総統の黎元洪が大総統を継ぎ、段祺瑞が国務総理として実権を握った。袁という重しを失った北洋軍は、段祺瑞の安徽派、馮国璋の流れをくむ直隷派、張作霖の奉天派などに分かれて争い始める。北京の政府はめまぐるしく入れ替わり、1917年には清の皇帝を復位させる騒ぎまで起きた。各地の軍人が自分の地盤を持って戦い合う軍閥の時代は、1928年に国民党が北京を取るまで続いた。この間の1919年に起きた五四運動は、二十一か条以来の屈辱への怒りが噴き出したものでもあった。

五四運動に関わる図版:Chinese protestors march against the Treaty of Versailles (May 4, 1919)
五四運動Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

袁世凱は長く「国を盗んだ大泥棒」と呼ばれてきた。革命の成果を奪い、外国の要求に屈し、時代に逆らって皇帝になろうとした人物、という評価である。一方で近年は、清の末から軍や教育や警察の近代化を進めた実務家として、その働きを見直す研究もある。共和国の最初の数年に、選挙で生まれた議会が力で押しつぶされたことは、その後の中国の政治に長い影を落とした。

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