ロック『統治二論』

概要
名誉革命の翌年、匿名で。第一論はフィルマーの王権神授説を潰し、第二論が本論。自然状態、自然権(生命、自由、財産)、労働による所有、同意による政府、信託、抵抗権。「政府が信託に背けば、人民は新しい立法部を作る権利を持つ」。アメリカ独立宣言はここから。ロックは死ぬまで著者だと認めなかった。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
ジョン・ロックAD1632年8月29日–AD1704年10月28日 · 書いた本文
17世紀のイングランドでは、王の権力はどこから来るのか、という問いが、そのまま内戦と革命の火種だった。1680年、ひとりの王党派の紳士が半世紀前に書いた遺稿が出版された。ロバート・フィルマーの『パトリアーカ(家父長論)』である。神は最初の人アダムに、子孫を支配する父としての権力を与えた。王の権力はその父権を受け継いだもので、臣民は父に従う子と同じく王に従わねばならない。この本は、ちょうどそのとき国を二分していた争いの中で、王の側の旗印として持ち出された。
争いとは、王位継承の排除をめぐる危機である。国王チャールズ2世には嫡子が無く、次の王になるのはカトリックに改宗していた弟のジェームズだった。プロテスタントの国でカトリックの王が立つことを恐れた人々は、議会の法律でジェームズを継承から外そうとした。その先頭に立ったのが、のちのホイッグ党を率いるシャフツベリ伯であり、その侍医で秘書のような立場にいたのがジョン・ロックだった。王の側に立つ人々、のちのトーリー党は、王位は神が定めた血筋で継がれるべきだと反論し、フィルマーの本を盾にした。

ロックの『統治二論』は、長く名誉革命を正当化するために書かれた本だと考えられてきた。だが1960年、ケンブリッジの研究者ピーター・ラスレットは、原稿の大部分は1679年から1683年頃、つまり排除の危機のさなかに書かれたことを示した。革命のあとで革命を弁護したのではなく、王の専制に抵抗することを正当化するために書かれた本だったのである。1683年、王と王弟の暗殺を企てたとされるライハウス陰謀が発覚し、シャフツベリ派の人々は捕らえられ、処刑された。身の危険を感じたロックはオランダへ逃れ、原稿の一部はその頃に失われたと考えられている。第一論の後半が欠けているのはそのためらしい。
1688年、王となっていたジェームズ2世に男子が生まれ、カトリックの王が続くことが確実になると、有力者たちはオランダ総督ウィレムを招いた。ウィレムはイングランドに上陸し、ジェームズはフランスへ逃げた(名誉革命と権利章典)。1689年2月、ウィレムの妻で新しい女王となるメアリがオランダから帰国する船に、ロックも乗っていた。その年の暮れ、『統治二論』は著者の名を伏せて出版された。扉の年は1690年となっている。

第一論は、フィルマーを一つずつ論破する。アダムは子孫を支配する権力を神から与えられてはいない。仮に与えられていたとしても、その正しい継承者が誰なのかは分からない。分かったとしても、いまの王たちがその継承者だという証拠はどこにも無い。王権を父権から導く議論は、根こそぎ崩された。
本論は第二論である。ロックもまた、トマス・ホッブズと同じく、国家の無い自然状態から考え始める。だがその姿は大きく違う。自然状態は完全な自由の状態だが、勝手放題の状態ではない。理性の声である自然法が、誰も他人の生命、健康、自由、財産を損なってはならないと教えている。所有についての章では、神は大地を人類に共有のものとして与えたが、人は自分の身体を自分のものとして持っている、と説く。身体の労働は本人のものであり、自然から取り出したものに自分の労働を混ぜれば、それはその人の所有になる。ただし、他の人にも十分な、同じくらい良いものが残されている限りで。腐らない貨幣が生まれたことで、人はその限度を超えて富を蓄えられるようになった、ともロックは書いた。

自然状態には不便がある。争いを公平に裁く者がいない。そこで人々は、自分たちの同意によって政治の社会を作り、政府を立てる。その目的は、ロックが広い意味でプロパティと呼ぶもの、すなわち生命と自由と資産を守ることにある。最高の権力は立法の権力だが、それも好き勝手には振るえない。定められ公布された法によって治めねばならず、本人の同意なしに財産を取り上げてはならない。権力は人民から預けられた信託にすぎない。そして最後の章で、ロックは言う。立法者が人民の財産を侵し、人民の生命と自由と財産の絶対の主人になろうとするなら、彼らは信託に背いたのであり、人民は服従の義務から解かれ、新しい立法の機関を作る自由を取り戻す。抵抗の権利である。
この理屈は、海を越えて生き続けた。1776年、トマス・ジェファソンが起草したアメリカ独立宣言は、すべての人は生命、自由、幸福の追求という奪いがたい権利を持ち、政府の正当な権力は被治者の同意に由来し、政府がその目的を損なうなら人民はそれを改め、廃止する権利を持つ、とうたった。ロックの財産が幸福の追求に置き換えられているが、骨組みはほぼそのままである。フランスでも、モンテスキューやジャン=ジャック・ルソーを通じて、ロックの考えは18世紀の思想の土台になった。

ロック自身は、『統治二論』の著者であることを生涯公には認めなかった。同じ年に実名で出した『人間知性論』で哲学者としての名声を得てからも、政治の本については口を閉ざし、人から著者ではないかと言われると、はぐらかしたという。著者であることを書面で認めたのは、1704年に亡くなる直前、遺言に付け加えた一文の中だった。
ロックの議論には、当時から限界もあった。労働によって所有が生まれるという理屈は、アメリカの先住民の土地は耕されていないから誰のものでもない、という植民の論理にも使われた。ロック自身、イングランドの植民地経営や奴隷貿易の会社と関わりを持っていた。自由と財産を守るための政府という考えが、誰を「人民」に含めるのかという問いを残したまま広がったことも、あわせて記憶されている。