種苗と育成者の権利
概要
新しい品種を作るには、時間と金がかかる。しかし、種は殖える。誰かが一袋買えば、翌年から自分で殖やせる。1961年、パリで植物新品種保護条約が結ばれ、育成者に排他的な権利が与えられた。当初は、農民が自家採種することは認められていた。1991年の改定で、その例外が各国の裁量になった。以後、種苗の権利をめぐる対立が続いている。企業は開発の費用を回収できなければ品種を作れないと言い、農民と途上国は、種を自分で採る権利は数千年の慣行だと言う。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
新しい作物の品種を作るには、長い時間と多くの金がかかる。性質の違う親を掛け合わせ、生まれた子の中から良いものを選び、何年も畑で試し、性質が安定するまで待つ。穀物や野菜でも10年から15年、果樹なら20年を超えることも珍しくない。ところが、できあがった品種には、ほかの発明とまったく違う性質がある。種は殖えるのである。誰かが一袋買えば、翌年からは自分で殖やせるし、隣の農家に分けることもできる。開発した側の手に入るのは、最初の一袋の代金だけになりかねない。機械なら真似して作るのに費用がかかるが、種は自分で自分を複製する。
数千年のあいだ、農民は自分で種を採ってきた。収穫の一部を翌年の種に取っておき、その中から出来の良いものを選んで蒔く。この繰り返しが、地域ごとに少しずつ違う在来の品種を育て、作物の多様性を作ってきた。種は誰のものでもなく、村の中で受け渡されるものだった。
19世紀から20世紀にかけて、それが変わり始める。1900年にメンデルのエンドウの論文の論文が再発見されると、遺伝の法則にもとづく計画的な育種が始まり、品種改良は専門家と企業の仕事になっていった。1920年代から30年代のアメリカでは、とうもろこしの一代雑種が広まった。異なる系統を掛け合わせた最初の世代は、両親より勢いよく育ち、収量も多い。しかし、その実から採った種を蒔くと、次の世代は性質がばらばらになってしまう。良い収穫を得るには、毎年新しい種を買うしかない。法律ではなく生物の仕組みが、種苗会社の利益を守ったのである。アメリカのとうもろこしの収量は、この時代に大きく伸びた。
ただ、この方法はどの作物にも使えるわけではない。小麦や稲や豆のように、自分の花粉で実を結ぶ作物では、一代雑種を大量に作るのが難しい。こうした作物の品種を守るには、法律の仕組みが要った。先に動いたのはアメリカで、1930年に植物特許法ができた。対象は挿し木や接ぎ木で殖やす植物、つまり果樹やバラなどに限られた。この法律には発明家のエジソンも支持を寄せた。少し前に亡くなった育種家ルーサー・バーバンクは、生涯に数百もの品種を生み出しながら、その品種を法的に守る手段を持たなかった。
1961年12月2日、パリで「植物の新品種の保護に関する国際条約」が結ばれた。この条約にもとづく国際機関は、フランス語の頭文字をとってユポフと呼ばれる。最初に署名したのは西ヨーロッパの数か国で、条約が効力を持ったのは1968年である。条約は、新しい品種を作った人に「育成者権」を与えた。特許とは別の、品種のために作られた独自の権利である。
権利を得るには条件がある。既存の品種とはっきり区別できること、同じ品種の株が揃っていること、代を重ねても性質が変わらないこと。この三つに、まだ売り出されていないという新しさが加わる。条件を満たして登録された品種について、育成者はその種苗を作って売ることを独占できる。期間は、現在の条約では原則20年以上、樹木やぶどうでは25年以上と定められている。
ただし、初期の条約には二つの大事な例外があった。一つは育種家の例外である。ほかの育種家は、守られている品種を、新しい品種を作るための材料として自由に使える。育種は既存の品種を掛け合わせて進むので、材料を囲い込めば品種改良そのものが止まってしまう。特許ではこの自由は保証されない。もう一つは農民の扱いである。1961年と1978年の条約では、権利が及ぶのは売るための種苗の生産であり、農家が自分の収穫から種を取って翌年自分の畑に蒔くことは、権利の外に置かれていた。
1991年の改定で、ここが変わった。農家の自家採種は、各国が認めるかどうかを選べる「任意の例外」になった。認める場合も、合理的な範囲で、育成者の正当な利益を守ることが条件とされた。認めなくてもよいし、認めたうえで料金を取ってもよい。権利の範囲も広がり、種苗だけでなく収穫物にも及びうるようになった。さらに、ある品種にわずかな手を加えただけの品種は、もとの品種の育成者の権利に服するという考え方が入った。育種家の例外を抜け道にした「ほぼ同じ品種」を防ぐためだが、どこまでを「わずか」とするかは新たな争点になった。
一方で、20世紀の品種改良のすべてが私企業のものだったわけではない。1960年代に始まる緑の革命を支えた小麦や稲の新しい品種は、ノーマン・ボーローグらが国際的な研究機関で作り、ほとんど無料で各国に配られた。高い収量は飢えを減らしたが、同時に、在来の品種が新しい品種に置き換えられ、畑から消えていくきっかけにもなった。品種を作る費用を誰が負担し、その成果を誰が使えるのかという問いは、公的な育種が縮み、民間の育種が大きくなるにつれて鋭くなっていった。

ここから、種をめぐる対立が深まった。推し進める側は言う。開発の費用を回収できなければ、誰も新しい品種を作らない。収量や病気への強さや栄養を改善してきたのは育種であり、気候の変化に耐える品種を作るにも投資が要る。反対する側は言う。種を採ることは農業と同じくらい古い営みだ。小さな農家が毎年種を買えるとは限らない。在来の品種は株ごとの性質が揃っておらず、そもそも保護の条件を満たさない。この仕組みは、企業の育種の成果だけを守る作りになっている、という批判である。さらに、新しい品種の多くは途上国の在来品種を材料にして作られるのに、材料を提供した側には何の権利もない。
国際的な枠組みは、別の方向にも動いた。1992年の生物多様性条約と2010年の名古屋議定書は、遺伝資源に対する原産国の主権と、そこから生まれた利益の配分を定めた。育成者の権利を強める流れとは逆向きの力である。2001年の「食料及び農業のための植物遺伝資源に関する国際条約」は、主要な作物と牧草の遺伝資源を共通の仕組みで出し入れできるようにし、その第9条に「農民の権利」を書き込んだ。種を保存し、使い、交換し、売る権利も挙げられている。ただしこの条文には「各国の法令に従って」という限定が付き、効き目は弱い。
逆に、保護を強く求める力もあった。1994年に結ばれ、世界貿易機関とともに発効した知的財産の協定は、加盟国に植物の品種を特許か独自の制度で守ることを義務づけた。守らないという選択肢は消えた。その後、多くの途上国がアメリカやヨーロッパとの貿易協定の交渉で、1991年の条約に加わることを条件として求められ、その点が繰り返し批判されている。
日本では1978年に種苗法ができ、1982年に条約に加わった。1998年には1991年の条約に合わせて法律が全面的に改められた。2020年の改正で、登録された品種については、農家が自分で殖やすにも育成者の許諾が要ることになった。政府が理由に挙げたのは、日本で育てられたぶどうやいちごの品種が海外へ持ち出され、勝手に栽培されていることだった。反対する側は、農家の負担が増えるうえ、国内の法律では国外での栽培は止められないと指摘した。なお、登録されていない在来の品種や、権利の切れた一般の品種は、これまでどおり自由に種を採ることができる。
種を守る取り組みには、別の形もある。包囲下の種子やスヴァールバル世界種子貯蔵庫のように、失われかけた品種そのものを保存する試みである。種は殖える。だからこそ作物は数千年受け継がれ、だからこそ誰が種の持ち主なのかという問いが、いまも決着しないまま続いている。