できごと

貞観の治

Reign of Zhenguan
AD627年
重要度 5
貞観の治に関わる図版:Jinci Temple (54573021971)
Jinci Temple (54573021971) Wikimedia Commons xiquinhosilva · CC BY 2.0

概要

太宗の23年。「創業と守成、いずれが難きか」。魏徴が200回諫め、太宗が聞いた。「君は舟、民は水」。人口が戻り、米が安く、死刑が29人の年があった。『貞観政要』。日本の天皇も徳川家康も読んだ。年号が理想の政治の名になった。

場所

長安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安

関わった人(2)

唐の太宗AD598年–AD649年 · 皇帝魏徴AD580年–AD643年 · 諫めた

本文

627年、唐の2代皇帝、李世民は年号を貞観と改めた。この年から649年に彼が死ぬまでの23年を、貞観の治と呼ぶ。唐の太宗として知られる李世民は、臣下の厳しい忠告に耳を傾け、民の負担を軽くし、法を穏やかにして、国を豊かにした。後の中国でも日本でも、貞観は理想の政治の代名詞になった。

ただ、この治世は血で始まった。李世民は、父の李淵とともに隋の末の混乱の中で兵を挙げ、618年に唐を建てた(唐の成立)。各地の群雄を倒して天下を統一した最大の功労者は、次男の李世民だった。しかし皇太子は兄の建成だった。兄と弟の元吉は、功名の高い李世民を除こうとし、兄弟の争いは抜き差しならないものになった。626年、李世民は長安の宮城の北門、玄武門で兄と弟を待ち伏せして殺した(玄武門の変)。2か月後、父の高祖は位を李世民に譲った。

玄武門の変に関わる図版:TangTaizong
玄武門の変Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

年号の貞観は、儒教の経典『易』の言葉からとられている。天地の道は、正しさによって人に示される、という意味の句である。兄弟を殺して位を得た皇帝が、正しさを掲げて治世を始めた。

太宗のもとには、すぐれた臣下が集まった。房玄齢と杜如晦は、太宗とともに戦った腹心で、制度づくりを担った。そして魏徴がいた。魏徴はもともと、殺された兄建成の側近で、早く李世民を除くよう建成に勧めていた人物だった。玄武門の変のあと、太宗は魏徴を呼び出し、なぜ兄弟の仲を裂いたのかと問い詰めた。魏徴は、もし建成が自分の言うことを聞いていたら、今日のような目には遭わなかっただろう、と答えた。太宗はその率直さを気に入り、魏徴を取り立てた。

歩輦図(唐代の画家・閻立本が描いた、貞観十四年(640年)に吐蕃の赞普・松賛干布が使者の禄東賛を長安に派遣し、太宗皇帝への朝貢と謁見を行った場面)
歩輦図(唐代の画家・閻立本が描いた、貞観十四年(640年)に吐蕃の赞普・松賛干布が使者の禄東賛を長安に派遣し、太宗皇帝への朝貢と謁見を行った場面)Wikimedia Commons Yan Liben · Public domain

魏徴は、生涯に200回を超える諫言を太宗に奉ったと伝えられる。太宗が宮殿の造営を思い立つと、隋の煬帝が民を酷使して国を滅ぼしたことを持ち出して止めた。太宗が狩りに出ようとすると、民の農作業の妨げになると言った。太宗は時に激怒して、あの田舎者をいつか殺してやる、と口走ったというが、結局は魏徴の言葉を聞き入れた。魏徴は、君主は舟であり、民は水である、水は舟を浮かべもするが、ひっくり返しもする、という『荀子』の言葉を引いて、太宗を戒めた。

あるとき太宗は臣下たちに、帝王の事業は、国を創ることと、それを守り保つことと、どちらが難しいかと尋ねた。房玄齢は、群雄と争って国を創ることこそ難しいと答えた。魏徴は、国を得たあと驕りが生じて滅びるのだから、守ることのほうが難しいと答えた。太宗は、創業の困難はもう過ぎた、これからは守成の困難を皆とともに慎んでいこう、と言ったという。この「創業と守成」の問答は、後世の為政者たちに繰り返し引かれた。

閻立本画、隋の煬帝の肖像
閻立本画、隋の煬帝の肖像Wikimedia Commons Yan Liben · Public domain

太宗の政治は、隋の制度を受け継ぎながら、それを穏やかに運用することに力を注いだ。民に田を分け与える均田制、その代わりに穀物や布、労役を納めさせる租庸調、農民を兵とする府兵制。中央には中書省・門下省・尚書省の三省と六部を置き、皇帝の命令も門下省が審査して差し戻すことができた。地方の役所の数を減らし、役人の数を絞った。刑罰も軽くされた。『資治通鑑』によれば、630年に全国で死刑になった者はわずか29人だった。

632年には、こんな出来事があったと史書は伝える。太宗は、死刑と決まった囚人390人を、いったん家に帰らせ、翌年の秋に戻ってくるよう約束させた。約束の日、囚人たちは一人残らず戻ってきた。太宗は全員を赦した。のちに唐の詩人白居易はこの話を詩で称えたが、宋の欧陽脩は、皇帝と囚人が互いに相手の心を読んだうえでの演出にすぎない、と批判した。

唐代の武官俑(メトロポリタン美術館)
唐代の武官俑(メトロポリタン美術館)Wikimedia Commons CC0

外に対しても、太宗の治世は唐の力を大きく広げた。630年、将軍李靖が東突厥を破り、頡利可汗を捕らえた(突厥可汗国の成立)。北方の遊牧民の首長たちは、太宗に「天可汗」(天の可汗)の称号を奉った。中国の皇帝が、遊牧民の世界の君主としても認められたのである。635年には青海の吐谷渾を、640年には西域のオアシス国家高昌を降した。641年には、チベットの吐蕃の王に文成公主の入蔵を嫁がせた。629年に国の禁を破って長安を出た僧の玄奘が、645年にインドから経典を持ち帰ったときも、太宗は彼を迎えた。

晩年の太宗には、陰りもあった。643年に魏徴が死ぬと、太宗は、銅を鏡とすれば衣冠を正すことができ、昔を鏡とすれば世の興亡を知ることができ、人を鏡とすれば自分の得失を明らかにできる、魏徴が死んで、私は一つの鏡を失った、と嘆いたという。645年、太宗は臣下の反対を押し切って自ら高句麗に遠征したが、安市城を落とせずに引き返した。魏徴が生きていれば、この遠征を止めただろう、と太宗は悔やんだと伝えられる。高句麗が唐と新羅に滅ぼされるのは、太宗の死後の668年である(高句麗の滅亡)。

莫高窟第220窟の壁画。初唐期の皇帝と群臣
莫高窟第220窟の壁画。初唐期の皇帝と群臣Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

太宗は649年、52歳で死んだ。晩年には、不老長寿を求めて丹薬を飲んでいたとも言われる。

貞観の治の記録には、注意すべき点もある。太宗は、自分の言行を記録した史官の記録を見たいと言い出し、史官の褚遂良に断られている。結局、太宗は宰相の房玄齢らがまとめた記録を読み、玄武門の変の書き方がぼかされているのを見て、周公が反乱を起こした兄弟を討ったのと同じことだ、ありのままに書け、と命じたという。太宗が自分の記録に目を通したことで、その書きぶりが太宗に都合よく整えられたのではないかと、後世の歴史家は疑ってきた。名君の像は、名君自身の手で磨かれていたのかもしれない。

唐の太宗がチベットの使者ガル・トンツェンを引見する場面(閻立本画の後代の模写)
唐の太宗がチベットの使者ガル・トンツェンを引見する場面(閻立本画の後代の模写)Wikimedia Commons Yan Liben · Public domain

太宗と臣下たちの問答は、8世紀の前半、史官の呉兢によって『貞観政要』10巻40篇にまとめられた。この本は、帝王学の教科書として長く読み継がれた。日本にも平安時代に伝わり、天皇や貴族に講じられた。鎌倉時代には北条政子が学者に命じて和訳させ、徳川家康は1600年、この本を木活字で刊行させている。明治天皇も侍講から講義を受けた。日本では859年に「貞観」という年号が使われ、その時代には東北地方を大地震が襲っている(貞観地震)。兄弟を殺して位についた皇帝の治世が、1000年を超えて、東アジアの理想の政治の名になった。

動画(1)

【貞観政要①】帝王学の最高傑作!家康も愛読した中国皇帝のリーダー論とは!?中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY唐の太宗の言行録『貞観政要』を読む2回の第1回

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