人物

フィリップ4世(美男王)

Philip IV of France
AD1268年 – AD1314年11月29日(享年46・推定)
フランス王国重要度 4

概要

法律家を使って教会に課税し、教皇を捕え、次の教皇をアヴィニョンに置き、テンプル騎士団を拷問で潰して財産を取った。三部会を最初に開いた。美しく、無口で、何を考えているか分からない、と同時代の人は書いた。

所属

フランス王国

関わったできごと(1)

アナーニ事件AD1303年9月7日 · 王

本文

フィリップ4世は1268年、パリの南のフォンテーヌブローで、カペー家の王子として生まれた。人々は彼を「ル・ベル」、美男王と呼んだ。背が高く、金髪で、整った顔立ちだったと同時代の記録は口をそろえる。同時に口数が極めて少なく、何を考えているのか誰にも分からなかった。王と争ったパミエの司教ベルナール・セセは、王は人でも獣でもない、像だ、ただじっと人を見つめるだけで何も言わない、と評したと伝えられる。

フィリップ4世(美男王)
フィリップ4世(美男王)Wikimedia Commons Jean Louis Bezard · Public domain

1284年、16歳でナバラ王国の女王ジャンヌと結婚し、ナバラとシャンパーニュ伯領を手に入れた。翌1285年、アラゴン遠征の帰りに父フィリップ3世が病死し、17歳で即位した。祖父ルイ9世(聖王ルイ)の時代から、カペー家の王権は少しずつ諸侯の上に伸びていたが、フィリップ4世はそれを一気に押し広げる。

彼の政治を動かしたのは、大学でローマ法を学んだ法律家たち、レジストである。ピエール・フロート、ギヨーム・ド・ノガレ、アンゲラン・ド・マリニー。多くは貴族ではない家の出で、王に取り立てられて力を得た。彼らは「王は自らの王国において皇帝である」という考えを掲げた。王国の中では、教皇も皇帝も王の上に立たない。高等法院(パルルマン)や会計院といった役所が形を整え、王の裁判と財政は専門の役人の手に移っていった。

アキテーヌの封を受けるエドワード1世からフィリップ4世への臣従礼
アキテーヌの封を受けるエドワード1世からフィリップ4世への臣従礼Wikimedia Commons Jean Fouquet · Public domain

フィリップ4世はいつも金に困っていた。イングランド王とはガスコーニュの領有をめぐって1294年から戦い、豊かな毛織物の町を抱えるフランドルとも戦った。1302年、フランドルのクールトレーでは、町の民兵の歩兵にフランスの騎士の大軍が敗れ、戦場から拾われた金の拍車が教会に掲げられた。戦費をまかなうため、王は商人から借り、税を新しく考え出し、貨幣の銀を減らした。民は彼を「贋金作りの王」と呼んだ。

金の出どころとして目をつけたのが教会だった。王が聖職者に課税すると、教皇ボニファティウス8世は1296年、教皇の許しなく聖職者に課税することを禁じる勅書を出した。いったんは妥協したが、1301年、王がセセ司教を反逆の罪で捕らえると、争いは決定的になった。1302年、フィリップ4世はパリのノートルダムに聖職者・貴族・都市の代表を集めて、教皇に対する王の立場への支持を取りつけた。これが三部会の始まりとされる。教皇は同じ年、すべての人は救いのためにローマ教皇に服さねばならない、と宣言する勅書で応じた。

フランス王フィリップ4世がパリのサント・シャペルの聖職者らに下賜した証書(1286年2月)
フランス王フィリップ4世がパリのサント・シャペルの聖職者らに下賜した証書(1286年2月)Wikimedia Commons Public domain

1303年9月、ノガレは教皇と敵対するローマの貴族コロンナ家の者たちと兵を率いて、教皇の故郷アナーニの館を襲い、教皇を捕らえた(アナーニ事件)。町の人々が数日で教皇を助け出したが、老いた教皇はローマに戻って1か月後に死んだ。1305年、フランス人のボルドー大司教が教皇クレメンス5世に選ばれた。彼はローマへ行かず、1309年からはローヌ河畔のアヴィニョンに住み着いた(教皇のアヴィニョン捕囚)。教皇庁は約70年、フランス王の目の届くところに置かれることになる。

1306年夏、王は国内のユダヤ人を一斉に捕らえて追放し、財産を取り上げた。追われた人の数は数万から10万に及んだとされる。同じ年の暮れ、貨幣の改鋳に怒ったパリの民衆が暴動を起こすと、王はテンプル騎士団のパリの館に逃げ込んで身を守った。

フィリップ4世(美男王)、『フランス王列伝』より(ジャン・デュ・ティレ、1550年)
フィリップ4世(美男王)、『フランス王列伝』より(ジャン・デュ・ティレ、1550年)Wikimedia Commons anonymous · Public domain

その翌年の1307年10月13日、金曜日。夜明けとともに、フランス中のテンプル騎士団員が王の役人に一斉に捕らえられた。十字軍のために作られた修道騎士団で、聖地を失った後も、ヨーロッパ中に領地を持ち、王や諸侯に金を貸す銀行の役も果たしていた。罪状は、入団の儀式で十字架に唾を吐かせた、偶像を拝んだ、男色を勧めた、といったものだった。拷問で多くが自白し、後に撤回した者は火あぶりにされた。教皇クレメンス5世はためらいながらも押し切られ、1312年、ヴィエンヌの公会議で騎士団を解散させた。

1314年3月、総長ジャック・ド・モレーは、シテ島の先の小島で火刑に処された。死ぬ前に、教皇と王を1年以内に神の裁きの場に呼び出すと叫んだという話がある。後世の伝説だが、実際に教皇は翌月に死に、王も同じ年の11月29日、フォンテーヌブローで死んだ。狩りの最中に倒れたのが死の始まりで、脳卒中だったとも、落馬だったとも言われる。46歳。ダンテは『神曲』で、猪の皮に打たれて死ぬ王、と皮肉っている。

醜聞に心を痛めるフィリップ4世を慰める家族
醜聞に心を痛めるフィリップ4世を慰める家族Wikimedia Commons maître du meliacin et collab · Public domain

同じ1314年、王家は醜聞に揺れた。3人の息子の妻のうち2人が若い騎士の兄弟と密通していたことが明るみに出たのである。セーヌのほとりの塔での逢い引きが噂になり、「ネールの塔事件」と呼ばれる。騎士の兄弟は惨たらしく処刑され、妻たちは城に閉じ込められた。3人の息子は父の後に次々に王になったが、いずれも長く生きず、王位を継ぐ男子を残さなかった。1328年、カペー家の直系は絶え、従兄弟のヴァロワ家が王位を継いだ。フィリップ4世の娘イザベルの子であるイングランド王エドワード3世は、自分こそ祖父の王位を継ぐべきだと主張した。それが百年戦争の口実の一つになる。

20世紀のフランスの作家モーリス・ドリュオンは、この王家の没落をテンプル騎士団総長の呪いになぞらえて連作小説『呪われた王たち』を書いた。歴史家は、フィリップ4世を教会の上に王の法を置き、近代国家への道を開いた王と見る一方、拷問と没収で金を集めた冷たい支配者とも見る。無口な美男王が実際にどこまで自ら命じたのか、法律家たちがどこまで王を動かしたのかは、いまも議論が分かれている。

動画(1)

093 中世のフランス 世界史20話プロジェクト第10話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第93講「中世のフランス」
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