概要
ニューヨーク州の小さな町の教会に、300人。奴隷制廃止運動の中で、女性が発言を許されなかったことから生まれた。「所感の宣言」。独立宣言を書き換えて、「全ての男女は平等に造られている」。11の決議。財産、教育、職業、離婚、そして選挙権(これだけは票が割れ、フレデリック・ダグラスの支持で通った)。100人が署名した。72年後、憲法修正第19条。
場所
42.91°N -76.80°E · アメリカ合衆国・ニューヨーク州
関わった人(2)
エリザベス・キャディ・スタントンAD1815年11月12日–AD1902年10月26日 · 起草したルクレシア・モットAD1793年1月3日–AD1880年11月11日 · 開いた本文
1840年6月、ロンドン。世界奴隷制反対大会。アメリカから来た女性の代表——ルクレシア・モット(クエーカーの説教者)、エリザベス・キャディ・スタントン(新婚旅行で夫に同行していた25歳)——は、会場に入れなかった。議論の末、「傍聴のみ、カーテンで仕切った桟敷で」と決まった。ウィリアム・ロイド・ギャリソンが抗議して、自分も桟敷に座った。
モットとスタントンは、その週、ロンドンの街を歩きながら、「帰ったら、女性の権利のための会議を開こう」と話した。
8年かかった。スタントンは、ボストンからニューヨーク州セネカ・フォールズ(人口4000の工場町)に移り、7人の子を育てていた。「知的な刺激のない、家事の連続。私は、女がなぜこれほど疲れるのかを、体で理解した」。
1848年7月13日、近くのウォータールーのジェイン・ハント宅で、5人の女(モット姉妹、ハント、マクリントック、スタントン)が茶を飲んだ。その場で決めた。7月14日、地元紙に3行の広告。「女性の権利大会。7月19日と20日、セネカ・フォールズのウェスリアン教会にて。初日は女性のみ、2日目は一般に公開」。
スタントンが「所感の宣言(デクラレーション・オブ・センチメンツ)」を書いた。独立宣言の形をそのまま使った。
「われらは、以下の真理を自明のものと信ずる。すべての男女は平等に造られ(all men and women are created equal)……」。そして、独立宣言がジョージ3世の圧政を数え上げたように、男が女に対して行ってきたことを18、数え上げた。選挙権を与えない。法を作る場から締め出す。結婚すれば、法の前で市民として死んだも同然にする。財産と賃金を夫のものにする。離婚と親権を男に有利にする。高等教育と、教会と、医学と法律と神学の職業から閉め出す。二重の道徳の基準を課す。「彼は、女の自尊心を破壊し、依存し卑屈な生活に甘んじさせるために、全力を尽くしてきた」。
7月19日、水曜。300人(3分の1は男)。教会の扉に鍵がかかっていて、スタントンの甥が窓から入って開けた。
11の決議。ほとんどが全会一致だった。第9決議——「この国の女性が、選挙権を得ることは、彼女らの神聖な義務である」——だけが割れた。モットもスタントンの夫も「行き過ぎだ。会議全体が笑い者になる」と言った(夫は、この決議のために町を出た)。フレデリック・ダグラス(元奴隷で、『ノース・スター』紙の編集者)が立って支持を述べた。「投票する権利がなければ、他の権利を守る手段がない」。僅差で通った。
100人が署名した。女68人、男32人。最年少は19歳の手袋工シャーロット・ウッドワード。
新聞は嘲笑した。「女たちの反乱」「愚行の極み」。署名者の何人かは、圧力で名前を取り下げた。
1850年から毎年、全国女性権利大会。1869年、全国女性参政権協会(スタントンとアンソニー)とアメリカ女性参政権協会に分裂。1878年、憲法修正案が初めて議会に提出された(「アンソニー修正」)。以後、毎年提出され、毎年葬られた。
1920年8月26日、憲法修正第19条。「合衆国市民の投票権は、性別を理由として、合衆国または州によって、否定または制限されてはならない」。72年後。
シャーロット・ウッドワードは、1848年に署名した100人のうち、ただ一人、1920年に生きていた。91歳。体調のため、投票所へは行けなかった。