セネカ・フォールズ会議
概要
ニューヨーク州の小さな町の教会に、300人。奴隷制廃止運動の中で、女性が発言を許されなかったことから生まれた。「所感の宣言」。独立宣言を書き換えて、「全ての男女は平等に造られている」。11の決議。財産、教育、職業、離婚、そして選挙権(これだけは票が割れ、フレデリック・ダグラスの支持で通った)。100人が署名した。72年後、憲法修正第19条。
場所
42.91°N -76.80°E · アメリカ合衆国・ニューヨーク州
関わった人(2)
エリザベス・キャディ・スタントンAD1815年11月12日–AD1902年10月26日 · 起草したルクレシア・モットAD1793年1月3日–AD1880年11月11日 · 開いた本文
19世紀前半のアメリカで、結婚した女性は法の上でほとんど独立した存在ではなかった。夫と妻は一体とみなされ、妻の財産も稼いだ賃金も夫のものになった。離婚は難しく、子どもの親権はたいてい父親に属した。大学の門は女性にほぼ閉ざされ、医師や法律家、聖職者になる道もなかった。もちろん選挙権はない。1792年にイギリスのメアリ・ウルストンクラフト(メアリ・ウルストンクラフト)が女性の権利を説く書物を著していたが、それを社会運動として掲げる人はまだ少なかった。
女性たちが声を上げる場を最初に見つけたのは、奴隷制の廃止を求める運動の中だった。北部の女性たちは反奴隷制の協会を作り、署名を集め、演説した。だが運動の中でも、女性が公の場で男性に交じって発言することには強い反発があった。奴隷の自由を求めながら、自分たちには発言の自由がない。その矛盾が、はっきりと形をとった出来事がある。

1840年6月、ロンドンで世界奴隷制反対大会が開かれた。アメリカの協会は女性の代表も送り出していた。その一人が、フィラデルフィアのクエーカーの説教者で、47歳のルクレシア・モットだった。ところが大会は、長い議論の末、女性の代表を正式の参加者として認めず、会場の脇の、カーテンで仕切られた傍聴席に座らせることに決めた。奴隷制廃止論者ウィリアム・ロイド・ギャリソンは抗議して、自分も女性たちと並んで傍聴席に座った。その傍聴席に、代表の一人である夫の新婚旅行についてきた、24歳のエリザベス・キャディ・スタントンがいた。ロンドンの街を歩きながら、モットとスタントンは、国に帰ったら女性の権利のための集会を開こう、と語り合ったという。
その約束が果たされるまでに、8年かかった。スタントンは1847年、夫とともにボストンからニューヨーク州西部の小さな工場町セネカ・フォールズへ移った。大きな家で幼い3人の息子を育て、病気の子の世話や家事に追われる日々の中で、彼女は、多くの女性が抱えている疲れと不満がどこから来るのかを、身をもって知ったと、のちに回想している。

1848年7月、モットが近くの町を訪れていた機会に、隣町ウォータールーのジェイン・ハントの家で、スタントン、モット、モットの妹マーサ・コフィン・ライト、メアリー・アン・マクリントックらがお茶の席を囲んだ。スタントンは胸の内を吐き出すように語り、その場で、すぐに集会を開くことが決まった。7月14日、地元の新聞に小さな告知が載った。女性の社会的・市民的・宗教的な状態と権利を議論する大会を、7月19日と20日、セネカ・フォールズのウェスリアン教会で開く。初日は女性のみ、2日目は一般に公開する。
集会の中心となる文書は、スタントンが起草した。題は「所感の宣言」。アメリカ独立宣言の文章を下敷きにして、その一語を書き換えた。われわれは、次の真理を自明のものと信じる。すべての男性と女性は平等に造られ、創造主によって一定の奪うことのできない権利を与えられている。独立宣言がイギリス国王ジョージ3世の圧政を一つ一つ数え上げたように、宣言は、男性が女性に対して重ねてきた不正を18項目にわたって並べた。女性に選挙権を認めず、自らが作りもしない法に従わせてきた。結婚した女性を、法の上では市民として死んだも同然にしてきた。財産と賃金を奪い、離婚と親権の法を男に都合よく作ってきた。高等教育と、収入の多い職業のほとんどから閉め出してきた。男には許される道徳上の過ちが、女には許されない二重の基準を作ってきた。そして女性自身の自信と自尊心を損ない、依存と服従の暮らしに甘んじさせようとしてきた、と。

7月19日の朝、会場の教会に着くと、扉に鍵がかかっていた。スタントンの甥が窓から入り込んで、内側から扉を開けたという。予想を超えて、近隣の町や農村から300人ほどが集まり、2日目にはそのうち40人ほどが男性だった。進行役には、女性が議長を務めることに慣れていなかったため、モットの夫ジェイムズが立った。
宣言に続いて、11の決議が審議された。女性は男性と平等であるべきこと、女性が演壇で語ることを妨げてはならないことなど、ほとんどの決議はすんなりと可決された。ただ一つ、女性に選挙権を求める決議だけが、激しい議論を呼んだ。モットでさえ、それでは集会全体が笑いものになると心配し、スタントンの夫は抗議して町を離れたと伝えられる。このとき立ち上がって決議を支持したのが、逃亡奴隷から身を起こして奴隷制廃止の新聞を発行していたフレデリック・ダグラスだった。投票の権利がなければ、ほかのすべての権利を守る手段がない、と彼は訴えた。決議はかろうじて可決された。

最後に、宣言に100人が署名した。女性68人、男性32人である。その中には、地元の手袋工場で働く19歳のシャーロット・ウッドワードもいた。
世間の反応は冷たかった。新聞は「女たちの反乱」とあざけり、署名した人々は周囲から非難を浴びて、名前を取り下げる者も出た。それでも2週間後にはロチェスターで次の集会が開かれ、1850年からは全国規模の女性の権利大会が毎年のように開かれるようになった。スタントンはやがて、組織の才に恵まれたスーザン・B・アンソニーと出会い、半世紀にわたって運動を率いることになる。
道のりは長かった。南北戦争のあと、解放された黒人男性に選挙権を認める憲法修正をめぐって運動は分裂し、1869年、二つの団体に分かれた。1878年、女性の参政権を定める憲法修正案が初めて連邦議会に提出された。それから毎年のように提出されては、葬られ続けた。その間に、ニュージーランド(ニュージーランドの女性参政権)やイギリス(イギリスの女性参政権運動)などで、各地の女性たちがそれぞれの闘いを重ねていた。

1920年8月、女性の選挙権を性別によって否定してはならないと定めた合衆国憲法修正第19条が成立した(女性の参政権(アメリカ))。セネカ・フォールズから72年。スタントンもモットもアンソニーも、すでに世を去っていた。1848年に署名した100人のうち、この日まで生きていたのは、手袋工だったシャーロット・ウッドワードただ一人だったと言われる。90歳を超えていた彼女は、体の具合が悪く、その年の選挙で投票することはできなかったと伝えられている。