安和の変
概要
左大臣源高明が、娘婿の為平親王を皇太子にする謀反を企てている、と源満仲が密告した。高明は大宰府へ。藤原氏が他氏を追った最後。以後、摂政と関白が常に置かれ、藤原北家が朝廷を持った。「摂関政治」の完成。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
本文
969年(安和2年)3月25日、左馬助の源満仲らが朝廷に密告した。中務少輔の源連や橘繁延らが謀反を企てている、という内容だった。朝廷はただちに関わった者を捕らえ、取り調べた。翌26日、左大臣の源高明が大宰府の員外帥に左遷されると決まる。謀反の企ての中心に高明がいる、とされたのである。
高明は醍醐天皇の皇子で、臣下の身分に下って源の姓を受けた人である。学問と朝廷のしきたりに通じ、村上天皇のもとで出世し、このとき左大臣だった。右大臣の藤原師尹より上の位にいた。藤原氏から見れば、天皇の血を引き、太政官の頂点にいる目障りな存在だった。
火種は皇位の継ぎ方にあった。村上天皇と藤原安子のあいだには、憲平・為平・守平の三人の皇子がいた。967年に村上天皇が死に、長男の憲平が冷泉天皇として即位した。冷泉天皇は心の病を抱えていたと伝えられ、子もまだいなかったので、すぐに皇太子を決める必要があった。順からいえば次男の為平親王である。だが皇太子に立ったのは、三男の守平親王(のちの円融天皇)だった。為平親王の妃は、高明の娘だったからである。為平が天皇になれば、外戚として力を持つのは藤原氏ではなく源高明になる。歴史物語の『大鏡』は、藤原氏の人々がそれを嫌い、ひそかに守平を立てたと書く。
密告は、その2年後に起きた。為平を天皇に立てようとする企てがあったのかどうかは、はっきりしない。高明が本当に関わっていたかも疑わしく、藤原氏が仕組んだ陰謀だったとする見方が強い。『大鏡』は師尹の仕業だとほのめかしている。師尹は高明に代わって左大臣に上ったが、その年の10月に死に、人々はそれを報いと噂したともいう。
高明は出家して許しを請うたが、聞き入れられず、大宰府へ送られた。左大臣が大宰府へ追われたのは、70年ほど前の菅原道真以来である。捕らえられた者たちもそれぞれ流された。橘繁延は土佐へ、僧の蓮茂は佐渡へ、そして藤原千晴は隠岐へ。千晴は、平将門の乱で平将門を討った藤原秀郷の子で、東国に地盤を持つ武士だった。

密告した源満仲は清和天皇の血を引く源氏の武士で、摂津の多田に根を張っていた。満仲は褒美として位を上げられた。同じ武士の家でありながら、秀郷の家の千晴は流され、満仲は取り立てられた。この事件を境に、秀郷の流れは都での足場を失い、満仲の清和源氏は藤原摂関家に仕える武士として伸びていく。満仲の子の頼光や頼信は摂関家の手足となって働き、頼信の子孫から、のちに鎌倉に幕府を開く頼朝が出る。
高明は2年後に許されて都に戻り、西宮の屋敷で静かに暮らして982年に死んだ。朝廷の行事の手順を細かく記した『西宮記』は彼の著作で、後の世まで手本にされた。高貴な生まれでありながら臣下に下り、都を追われ、のちに戻る。その姿から、『『源氏物語』』の光源氏の手本の一人とも言われる。

この事件の後、藤原氏の北家に肩を並べる氏は朝廷から消えた。藤原氏が他の氏の有力者を追い落とした一連の事件の、最後のものとされる。冷泉天皇の即位とともに藤原実頼が関白になってからは、摂政か関白がほぼ途切れずに置かれるようになった。九世紀の藤原良房の摂政から始まった流れが、ここで定まったのである。
それからは藤原氏の中で、誰が摂政・関白になるかが争われた。伊尹、兼通、兼家の兄弟が競い、その子の世代で道隆や道兼と争った末に藤原道長が頂点に立つ。摂関政治の頂点と呼ばれる時代は、安和の変で他の氏を退けたところから本当の意味で始まった。そしてその裏で、密告によって取り立てられた武士たちが、少しずつ力を蓄えていた。