できごと

ブーヴィーヌの戦い

Battle of Bouvines
AD1214年7月27日
重要度 4
ブーヴィーヌの戦いに関わる図版:Bataille de Bouvines gagnee par Philippe Auguste
Bataille de Bouvines gagnee par Philippe Auguste Wikimedia Commons Horace Vernet · Public domain

概要

フランス王フィリップ2世が、皇帝オットー4世とフランドル伯とイングランド王ジョンの連合を日曜日に破った。皇帝は逃げ、ジョンはノルマンディーを失ったまま帰って、翌年マグナ・カルタに署名させられた。フランスが「王国」になった日。

場所

ブーヴィーヌ
50.58°N 3.19°E · フランス

本文

12世紀の終わり、フランス王が直接治める土地は、パリとオルレアンを中心とする狭い範囲にすぎなかった(ユーグ・カペーの即位以来のカペー家の領地である)。一方、イングランド王の家、プランタジネット家は、ノルマンディー、アンジュー、アキテーヌと、フランス西部の大半を領地として持っていた。イングランド王はフランス王の臣下として大陸の領地を治めていたが、実際の力ははるかに上だった。

1180年に15歳で即位したフランス王フィリップ2世は、この力の差を覆すことに生涯をかけた。のちにオーギュスト(尊厳王)と呼ばれる王である。リチャード1世(獅子心王)とは第三回十字軍に共に出たが、先に帰国してリチャードの留守を狙った。リチャードの死後、弟のジョンが王になると、フィリップは臣下としての義務を果たさないジョンを法廷に呼び出し、出頭しないことを理由に大陸の領地の取り上げを宣言した。1204年、フィリップはノルマンディーの要の城を落とし、ノルマンディーを手に入れる。アンジューやメーヌもこれに続いた。ジョンは領地を失った王として、のちに失地王と呼ばれる。

ブーヴィーヌの戦いの開戦前の両軍配置
ブーヴィーヌの戦いの開戦前の両軍配置Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ジョンは取り戻すための大きな計画を立てた。自分は西のポワトゥーから攻め上がり、北からは甥にあたる神聖ローマ皇帝オットー4世と、フランス王に背いたフランドル伯フェラン、ブローニュ伯ルノーが攻め込む。挟み撃ちである。オットーはドイツのヴェルフ家の出で、イングランド王家の資金に支えられて皇帝になったが、教皇に破門され、ドイツではシュタウフェン家の若いフリードリヒと争っていた。フィリップは教皇と組んでフリードリヒを後押ししていた。ドイツの王位争いとフランス・イングランドの争いが、一つに絡み合っていたのである。

1214年の夏、計画は西から崩れた。ジョンはロワール川の近くまで進んだが、7月の初め、フィリップの息子ルイの軍が近づくと、戦わずに退いてしまった。北の連合軍はそれでも、フランドルからパリを目指して進んだ。7月27日、フィリップの軍は、リールの南東、ブーヴィーヌの村の近くで、マルク川の橋を渡って退こうとしていた。その日は日曜日で、教会の教えでは戦いを避けるべき日だった。そこへオットーの軍が追いついてきた。フィリップは渡りかけていた兵を呼び戻し、向きを変えて戦うことにした。

フランドル伯フェランの捕縛を描いた1330年頃の挿絵
フランドル伯フェランの捕縛を描いた1330年頃の挿絵Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

戦いの前、王が騎士たちにパンをワインに浸して分け、自分より王冠にふさわしい者がいればこれを譲ろう、と言った、という場面がよく語られる。騎士たちは、陛下こそ、と答えたという。ただ、これは戦いから数十年後の年代記に初めて現れる話で、後の脚色とみられている。

戦いは午後に始まり、数時間で決着した。右翼ではブルゴーニュ公らの騎士がフランドル伯の騎士とぶつかった。中央では、オットーの側の歩兵が王の周りに押し寄せ、フィリップを鉤のついた槍で馬から引きずり落とした。王は鎖帷子に守られて刺されず、側近の騎士が馬を与えて救った。この場面を書き残したのは、王のそばで戦いを見ていた王付きの司祭、ギヨーム・ル・ブルトンである。続いてフランスの騎士たちがオットーに迫り、皇帝の馬が傷つけられた。オットーは別の馬で戦場を逃れ去った。竜の上に金の鷲を載せた皇帝の旗は折られ、フィリップのもとへ運ばれた。今日は、もう彼の顔を見ることはあるまい、と王は言ったとギヨームは書いている。

馬から落ちたフィリップ2世(左、王冠を被る)とブーヴィーヌの戦いから逃れるユーグ・ド・ボーヴ(右)。マシュー・パリス『大年代記』、1250年頃
馬から落ちたフィリップ2世(左、王冠を被る)とブーヴィーヌの戦いから逃れるユーグ・ド・ボーヴ(右)。マシュー・パリス『大年代記』、1250年頃Wikimedia Commons Public domain

連合軍の左翼で最後まで戦ったのは、ブローニュ伯ルノーと、ジョンの異母弟ソールズベリー伯だった。やがてフランドル伯フェランとルノーは捕えられた。当時の戦いでは騎士は殺すより捕えるものであり、死者は意外に少なかったとされる。フェランはパリに新しく築かれたルーヴルの塔に閉じ込められ、13年後にようやく釈放された。ルノーは鎖につながれたまま牢で死んだ。

王がパリへ凱旋すると、学生や市民が7日7晩にわたって祝ったとギヨームは伝える。ギヨームはのちに、王をたたえるラテン語の長い詩『フィリッピス』を書き、この戦いをその中心に置いた。

ブーヴィーヌの結果は、三つの国の歴史を同時に変えた。ドイツでは、オットー4世の力が失われ、フリードリヒ2世が皇帝の座を固めていく。フランスでは、ノルマンディーなどの征服が確定し、王の直轄の土地は一気に何倍にも広がった。王が諸侯を従える国として、フランスがまとまり始めたのである。そしてイングランドでは、大金を費やした末に敗れたジョンへの諸侯の不満が爆発した。1215年6月、ジョンはロンドン近くのラニーミードで、王の権力に枠をはめる文書を認めさせられる。マグナ・カルタである。フランスの勝利が、イングランドの自由の文書を生んだことになる。

マグナ・カルタに関わる図版:Magna Carta (British Library Cotton MS Augustus II.106)
マグナ・カルタWikimedia Commons Original authors were the barons and King John of England . Uploaded by Earthsound . · Public domain

フランスの歴史家ジョルジュ・デュビーは、1973年に『ブーヴィーヌの日曜日』を書き、この一日の戦いが、その後の何百年の間にどのように記憶され、語り直されてきたかを描いた。とりわけ19世紀以降、ブーヴィーヌは、王と民が一つになって外国の敵を退けた、フランスの国民の誕生の日として語られるようになる。1914年の夏、戦いから700年を記念する催しが開かれた。それからまもなく、フランスとドイツは再び戦争に入った。

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