ジョモ・ケニヤッタ
概要
ロンドンで人類学を学び、キクユの社会を内側から書いた。マウマウ団の反乱で9年投獄され、出獄して初代大統領になる。
関わったできごと(1)
マウマウ団の反乱1952年 · 投獄された本文
ケニア山の南、ガトゥンドゥに近いキクユの村に生まれた。幼名はカマウ・ワ・ンゲンギという。生年は本人も正確には知らず、1890年代のどこかとしか分からない。キクユには年を数える暦が無く、同じ時期に割礼を受けた年齢組で世代を数えていたからだ。

少年の頃、スコットランド教会の伝道所の学校に入り、読み書きと大工仕事を覚えた。洗礼を受けてジョンストン・カマウと名乗り、ナイロビへ出て、市の水道局で検針員などをして働いた。この頃のナイロビは、白人入植者が高原の肥えた土地を「白人の高地」として押さえ、キクユが自分の土地で小作や出稼ぎをさせられる町だった。彼はキクユ中央協会に加わり、1928年にはその書記長になって、キクユ語の月刊紙を編集した。土地を返せ、という要求が運動の芯だった。
1929年、協会の代表として土地問題をイギリス政府に訴えるためロンドンへ渡った。一度戻ったあと1931年に再び渡り、そこから1946年まで15年をヨーロッパで過ごす。一時はモスクワの東方勤労者共産主義大学で学んだが、共産主義者にはならなかった。ロンドンに戻ると、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで人類学者マリノフスキーのゼミに入った。

その成果が、1938年に出た『ケニア山のふもと』である。割礼、土地の持ち方、結婚、宗教を、キクユの社会を内側から知る者が、人類学の作法で書いた。アフリカ人が自分の社会を人類学の言葉で書いた最初期の本の一つで、植民地支配がキクユの暮らしの仕組みを壊している、という主張が全体を貫いている。この本で初めてジョモ・ケニヤッタの名を使った。ジョモは「燃える槍」、ケニヤッタはマサイ風の飾り帯に由来するとされる。
第二次世界大戦中はサセックスの農場で働き、イギリス人女性と結婚した。1945年にはマンチェスターの第5回パン・アフリカ会議を、クワメ・エンクルマらとともに準備した。アフリカの独立運動の指導者たちが、ロンドンで顔を合わせていた時代である。
1946年に帰国し、翌年ケニア・アフリカ人同盟の総裁になって、独立運動の顔になった。だが運動の内側では、土地を力で取り戻そうとする若い世代が、宣誓で結ばれた秘密の組織を広げていた。1952年、マウマウ団の反乱をめぐってイギリスは非常事態を宣言し、ケニヤッタを首謀者として逮捕した。北部の辺地カペングリアで開かれた裁判は、証拠が弱く、主要な証人はのちに偽証を認め、金を受け取っていたと語っている。それでも1953年に7年の重労働刑が言い渡された。刑期を終えたあとも辺地に軟禁され、逮捕から釈放まではおよそ9年に及んだ。1960年には総督が彼を「暗黒と死への指導者」と呼んでいる。

投獄はかえって彼を独立の象徴にした。1961年に釈放されるとケニア・アフリカ民族同盟の総裁に迎えられ、1963年6月に首相、同年12月のケニアの独立を経て、1964年に共和国の初代大統領になった。
大統領としての彼は、多くの人の予想を裏切った。白人入植者を追い出さず、過去を許して忘れよう、と繰り返して和解を説き、入植者が残ることを認めた。スワヒリ語の「ハランベー(力を合わせて引こう)」を合言葉に、学校や診療所を住民の拠金で建てる運動を広げた。冷戦の中では西側に寄り、ケニアは周辺国が内戦や軍事政権に揺れる中で比較的安定した国になった。

その裏で権力は集中していった。副大統領だったオギンガ・オディンガと決裂し、1969年には有力な閣僚トム・ムボヤが暗殺され、オディンガの政党は禁止されて、事実上の一党支配になった。1975年には政権に批判的な議員が殺され、その真相は闇に残っている。白人が去った土地は、農民に広く配られるより、大統領の一族を含む有力者の手に多く渡った。キクユが政権の中枢を占めたことは、ほかの民族の不満を後に残した。
1978年8月22日、海辺の町モンバサで、在職のまま眠るように死んだ。80歳前後だったとみられる。後を継いだのは副大統領のダニエル・アラップ・モイで、一党支配はさらに強まった。

ケニアでは「ムゼー(長老)」と呼ばれ、建国の父として紙幣に顔が刷られてきた。同時に、土地と富の偏り、民族ごとの政治という、いまに続く問題の出発点にも彼の名がある。息子のウフル・ケニヤッタは2013年に大統領になった。ジュリウス・ニエレレが農村の社会主義を試みたタンザニアと、資本主義の道を選んだケニアは、隣り合う二つの実験としてよく比べられる。