ディポヌゴロ
概要
ジャワの王族に生まれ、5年にわたる反乱でオランダを追い詰めた。和平交渉に呼び出された席で捕らえられ、流刑地で死ぬ。いまインドネシアの国民的英雄になっている。
関わったできごと(1)
ジャワ戦争1825年 · 率いた本文
ディポヌゴロは1785年11月11日、ジョグジャカルタの宮廷に生まれた。父はのちのスルタン、ハメンクブウォノ3世で、ディポヌゴロはその長男だった。ただ母は正妃ではなく、側室の身分だった。そのため王位を継ぐ筋からは早くに外れている。

幼いころから、曾祖母にあたる王族の女性に引き取られ、都の外のトゥガルレジョという村の屋敷で育った。宮廷の儀礼や政争から離れ、イスラームの寄宿塾の師や村の農民と日常的に交わった。コーランと法学を学び、同時にジャワ古来の神秘思想にも通じた。洞窟や聖地にこもって瞑想する修行も重ねたと、のちの自伝に書いている。宮廷の王子でありながら、イスラーム教師と農民の世界を知っている。この二つを併せ持つことが、のちの戦いで人を集める力になった。
17世紀のオランダ東インド会社の設立から200年近くが経ち、19世紀はじめのジャワ中部は、オランダ(一時はイギリス)の力が宮廷の奥まで入り込んでいた。王位の継承に植民地政府が口を出し、王族の土地はヨーロッパ人や華人に貸し出された。1823年、総督ファン・デル・カペレンがその貸し出しを一方的に取り消し、王族は借り手に多額の補償を払わされた。道路や市場の通行税は重く、凶作と疫病も重なった。村々では、乱れた世を正す「公正な王」が現れるという言い伝えがささやかれていた。
1822年、幼いハメンクブウォノ5世が即位すると、ディポヌゴロは後見人の一人に加えられた。しかし実際の政治はオランダの駐在官と宮廷の有力者が握り、彼の意見は通らなかった。1825年、オランダ側はトゥガルレジョの彼の土地を横切る道路を計画し、断りなく測量の杭を打った。道は祖先の墓所にかかっていた。ディポヌゴロの側は杭を抜き、槍に差し替えたと伝えられる。同じ年の7月、オランダ軍が屋敷を襲い、彼は南のスラロンの丘へ逃れて兵を挙げた。これがジャワ戦争の始まりになる。

挙兵の呼びかけは速く広がった。ディポヌゴロはスルタンを名乗り、信仰の守り手としての称号を掲げた。イスラーム教師のキヤイ・モジョが宗教の面から支え、若い王族のセントットが騎兵を率いた。農民、教師、不満を抱く王族が加わり、反乱軍はジャワ中部の大半で一時は優位に立った。正面から戦わず、地の利を生かして襲っては消える戦い方が、オランダ軍を苦しめた。
オランダは司令官デ・コックのもとで戦い方を変えた。占領した土地に小さな砦を次々に築き、砦と砦を道で結んで、反乱軍の動ける範囲を少しずつ狭めていく。手間と金はかかったが、効き目はあった。1828年にキヤイ・モジョが捕らえられ、翌年にはセントットが降伏した。ディポヌゴロの手勢は細り、彼自身も病に苦しんだ。

1830年3月、デ・コックは和平交渉と称してディポヌゴロをマゲランの駐屯地へ招いた。ラマダンの明けの時期で、彼はわずかな供だけを連れて来た。交渉は決裂し、そのまま捕らえられた。オランダ側は「交渉の決裂後の拘束」と言い、ジャワの側は騙し討ちと受け取った。この場面は、オランダの画家とジャワの画家ラデン・サレーがそれぞれ描いている。前者は降伏する敗者として、後者は胸を張って不当な逮捕に向き合う王子として描いた。
5年の戦いで、ジャワの側の死者は20万人に及んだとされる。オランダ側も、ヨーロッパ兵だけで8000人ほどを失った。戦費で傾いた植民地財政を立て直すため、オランダは同じ1830年からジャワの強制栽培制度を始める。農民に輸出作物を作らせて安く買い上げる仕組みで、ジャワの村はこの後、さらに重い負担を背負うことになった。

ディポヌゴロはまずスラウェシ北部のマナドへ、1834年からは南部のマカッサルの要塞へ移された。マナドにいたころ、ジャワ語の韻文で長い自伝『ディポヌゴロ年代記』を書いた。生い立ち、夢と啓示、戦いの経過を自分の言葉で語ったもので、敗れた側の指導者が書いた記録として、いまはユネスコの世界の記憶にも登録されている。家族と共に幽閉されたまま、1855年1月8日にマカッサルで死んだ。
ジャワ戦争はオランダにとって植民地支配を固め直す転機であり、ジャワにとっては古い宮廷が独自の力を失う終わりになった。20世紀に民族運動が起こり、1945年のインドネシア独立宣言を経ると、ディポヌゴロは外の支配に立ち向かった先駆けとして語り直され、1973年にインドネシアの国家英雄に定められた。中部ジャワのスマランにある国立大学、陸軍の師団、各地の大通りがその名を持つ。ただし彼の戦いは、近代の国家や民族を掲げたものではなく、信仰とジャワの秩序を守るための戦いだった。その違いを指摘する研究者もいる。