冠位十二階

概要
徳・仁・礼・信・義・智を大小に分けて12。紫、青、赤、黄、白、黒の冠。氏でなく個人に、世襲でなく功績で。隋と百済と高句麗の制度を見て作った。小野妹子は隋へ渡ったとき「大礼」で、のちには最上位の「大徳」だった。官僚の始まり。
場所
34.47°N 135.82°E · 日本・奈良県
関わった人(2)
聖徳太子AD574年–AD622年 · 定めた推古天皇AD554年–AD628年 · 天皇本文
推古11年(603年)12月5日、『日本書紀』は「始めて冠位を行ふ」と記す。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の12の位である。翌年の正月元日、初めて臣下に冠が授けられた。冠はそれぞれの位にあたる色の絹で縫い、頂を袋のようにまとめ、縁を付けた、と『書紀』は書く。
それまでの朝廷を支えていたのは、氏と姓(かばね)だった。蘇我や大伴や物部といった豪族の一族が氏としてまとまり、臣・連・造・首などの姓を代々受け継ぐ。朝廷での地位は、どの氏に生まれたかでほぼ決まっていた。冠位はこれと違い、氏ではなく一人ひとりに授けられ、代々受け継がれるものではなかった。働きによって位が上がりうる。役人を家柄でなく個人として序列づけた、日本で最初の仕組みである。

手本は大陸と半島にあった。この少し前、隋の中国再統一で中国は300年ぶりに一つになり、官僚を九つの品で分ける制度を持っていた。もっと近い手本は朝鮮半島の国々で、百済は16の官位を服の色で見分けさせ、高句麗にも位を冠や色で示す制度があった。冠の色で位を見分けるという作りは、半島の制度にいちばん近いとされる。冠位が作られた4年後には遣隋使が送られる。隋と向き合うには、相手に通じる形の役人の秩序が要った。
名の付け方は儒教による。仁・礼・信・義・智は人の守るべき五つの徳で、その上に徳を置いた。中国の歴史書『隋書』の倭国伝にも、倭の官には12の等級があり、一を大徳、次を小徳と呼ぶ、と書かれている。ただし『隋書』は仁の次を義・礼・智・信の順に並べていて、『書紀』の順とは違う。どちらが実際の順だったかは議論がある。

冠の色について、『書紀』は何も書いていない。紫・青・赤・黄・白・黒の6色を濃淡で分けたという説がよく知られるが、これは後の時代の記録や、五行思想から推し量ったもので、確かめられてはいない。冠そのものも一つも残っていない。ただ紫を最上とすることは、のちの律令の服の色の決まりでも変わらない。
冠位を授けられた人として名がはっきりしているのが小野妹子である。607年、隋へ使いに立ったとき、彼は第5位の大礼だった。のちに最上位の大徳に至ったことが、子の毛野の死を伝える『続日本紀』の記事から分かる。いつ上がったかは書かれていない。使いの務めの功によるものと考えられることが多い。氏の格では中ほどの小野氏の者が、働きで最上位に届いた例になる。
一方で、冠位の外にいた人々もいた。大臣の蘇我馬子は冠位を授けられた記録がなく、授ける側にいたと考えられている。皇族も対象ではなかった。冠位は豪族の頂点まで縛るものではなく、その下の役人を朝廷が並べるための道具として始まった。
誰が作ったのかについて、『書紀』は主語を書いていない。推古天皇の治世の記事として置かれているだけである。のちの『上宮聖徳法王帝説』は、聖徳太子が蘇我馬子とともに政治を助け、十二の位を定めたと書く。厩戸皇子の事績とされるものの多くは、後世に聖人として崇められる中で膨らんだ面があり、冠位十二階や翌年の憲法十七条をどこまで本人の仕事と見るかは、研究者の間で意見が分かれる。ただ推古朝に冠位の制度が始まったこと自体は、『隋書』の記事とも合い、疑われていない。
冠位はその後、何度も作り直された。大化の改新のあと647年に13階、649年に19階、664年に26階、685年に48階と細かくなり、701年の大宝律令で正一位から少初位下までの30の位階に落ち着いた。位階は形を変えながら明治以後も栄典として残り、いまも亡くなった功労者に贈られている。603年の12の冠は、その長い系譜の最初の一段だった。