概要
農民から刀、脇差、弓、槍、鉄砲を取り上げた。「集めた武器は方広寺の大仏の釘とかすがいにする。農民は来世まで救われる」。一揆を防ぎ、農民と武士を分けた。兵農分離。武器は完全には消えず、村には鉄砲が残った。ただ「農民は武器を持たない」という建前ができた。
場所
京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
豊臣秀吉AD1537年–AD1598年 · 出した本文
1588年7月8日(旧暦)、3か条。
一、諸国の百姓が、刀、脇差、弓、槍、鉄砲、その他の武具を持つことを固く禁じる。不要な道具を持って年貢を渋り、一揆を企て、領主に逆らう者は処罰する。 一、取り上げた刀と脇差は、今度建てる方広寺の大仏の釘とかすがいに使う。百姓は今生だけでなく来世まで救われる。 一、百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫まで安泰である。百姓を愛するからこそ、この命令を出す。
刀狩は秀吉が最初ではない。柴田勝家が1576年に越前で、一向一揆を潰したあと、刀を集めて鎖と釘にした。秀吉のは全国で、恒久だった。
村には武器が残った。近年の研究(藤木久志)は、江戸時代の村に鉄砲が大量にあったことを示した。獣を追い、祭りで撃ち、自衛した。幕府はそれを知っていて、登録させた。刀狩が取ったのは、武器そのものより、「百姓が武器を持って戦う」という正当性だった。中世の百姓は武装して自力救済していた。それが、公権力に訴える百姓になった。
同じ日、海賊停止令。海の武装も禁じた。
「兵農分離」。武士は城下町に住んで俸禄で暮らし、百姓は村で年貢を払う。それまでは武士は村にいて、百姓は戦のとき兵だった。二つの身分が分かれて、260年。
方広寺の大仏は1596年の地震で壊れた。釘になった刀がどこへ行ったかは分からない。