できごと

刀狩令

Sword Hunt edict
AD1588年8月29日(天正16年7月8日)
重要度 5
ロシア帝国スペイン帝国明チベットイスラムとヒンドゥーの諸国Koryaks日本シャン諸邦大越朝鮮王朝Itelmen大越ビルマの諸王国カンボジアアユタヤ朝ラオスアイヌモシリPeguAD1588年8月29日(天正16年7月8日)京都
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概要

農民から刀、脇差、弓、槍、鉄砲を取り上げた。「集めた武器は方広寺の大仏の釘とかすがいにする。農民は来世まで救われる」。一揆を防ぎ、農民と武士を分けた。兵農分離。武器は完全には消えず、村には鉄砲が残った。ただ「農民は武器を持たない」という建前ができた。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

関わった人(1)

豊臣秀吉AD1537年–AD1598年 · 出した

本文

戦国時代の村は、武器を持っていた。百姓たちは刀や槍や弓を家に備え、村どうしの水や山の争いには、武器を手に集まって戦った。領主の年貢の取り立てに不満があれば、村々が結んで一揆を起こした。浄土真宗の門徒たちが一向一揆を起こし、加賀の一向一揆では守護を倒して、百年近く国を治めた。大名の軍の兵の多くも、戦のときに村から集められた百姓だった。武士と百姓の境目は、はっきりしたものではなかった。

1588年7月8日、旧暦の天正16年のこの日、豊臣秀吉は全国に向けて3か条の命令を出した。前の年に九州の島津氏を降し、関白として朝廷の権威を背に、全国の大名に号令できる立場を固めた時期だった。

関東大震災発生後に押収された自警団の武器。
関東大震災発生後に押収された自警団の武器。Wikimedia Commons Tokyo Metropolitan Police Department · Public domain

第一条は、諸国の百姓が、刀、脇差、弓、槍、鉄砲、その他の武具を持つことを固く禁じる、と言う。必要のない道具を持っていると、年貢を出し渋り、一揆を企て、領主に対して不届きなことをするようになるからだ、と理由を述べる。そういう者は処罰する。

第二条は、取り上げた刀や脇差を無駄にはしない、と言う。いま京都に建てている方広寺の大仏の、釘やかすがいにする。そうすれば百姓は、この世だけでなく、あの世まで救われる。

1945年、青島で武装解除され刀を手放す日本兵
1945年、青島で武装解除され刀を手放す日本兵Wikimedia Commons Connolly · Public domain

第三条は、百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫まで長く安泰である、と言う。百姓を哀れに思うからこそ、この命令を出すのだ、と結んでいる。

命令を受けた大名たちは、それぞれの領内で百姓から武器を集め、その目録を秀吉の奉行に差し出し、武器を京都へ送った。北陸の大名の領地などで、集めた刀や脇差、槍の数を書き上げた目録がいまも残っている。刀狩令そのものの写しも各地の大名家や寺社に伝わっており、原文を読むことができる。

豊臣秀吉の肖像
豊臣秀吉Wikimedia Commons Kanō Mitsunobu · Public domain

武器を取り上げることそのものは、秀吉が最初ではない。織田信長の家臣柴田勝家は、1576年に越前の一向一揆を鎮めたあと、領内の百姓から武器を集め、それを鋳つぶして農具や、川に架ける舟橋の鎖にしたと伝えられる。秀吉自身も、1585年に紀伊の根来寺や雑賀の一揆勢を攻め滅ぼしたあと、その地の百姓に武器の放棄を命じていた。1588年の刀狩令の新しさは、それを全国の百姓に一度に、恒久の決まりとして命じた点にあった。同じ日、秀吉は海の武装勢力に向けて海賊停止令を出し、海の上での私的な戦いも禁じている。

刀狩令の2年後、秀吉の天下統一によって全国の統一がなる。秀吉の政権は、太閤検地で全国の田畑を測り、百姓を土地に登録した。刀狩で百姓から武器を取り上げ、1591年には武士の奉公人が百姓や町人になること、百姓が田畑を捨てて商いに出ることを禁じた。武士と百姓と町人を分け、それぞれの身分に固定していく。武士は城下町に集まって住み、主君から俸禄を受けて暮らす。百姓は村に住んで土地を耕し、年貢を納める。この「兵農分離」によって、戦うことは武士だけの仕事になった。

では、村から本当に武器が消えたのか。歴史家の藤木久志は、江戸時代の村々に大量の鉄砲が残っていたことを明らかにした。山の多い地域の村では、猪や鹿や猿から作物を守るために、鉄砲が欠かせなかった。幕府も藩もそれを知っていて、取り上げるのではなく、登録させて管理した。5代将軍徳川綱吉の時代には、全国の鉄砲の調査が行われている。刀も、百姓の家から完全には消えず、祭りや儀礼の場では身に付けられた。

藤木によれば、刀狩が奪ったのは、武器そのものよりも、百姓が武器を持って自分たちの争いを自分たちで解決する権利だった。中世の村は、争いが起きれば自ら武装して戦う、自力救済の世界だった。刀狩とそれに続く争いの禁止によって、村どうしの争いは武器ではなく、領主や幕府の裁判で解決するものになった。百姓は、戦う百姓から、訴える百姓へと変わっていった。

刀を差すことは、やがて武士の身分を示すしるしになった。江戸時代には、百姓や町人が刀を差して歩くことは原則として許されず、帯刀は武士と、特に許された一部の人だけの特権になった。この区別は、明治のはじめに身分制が廃止され、刀を差して歩くことそのものが禁じられるまで続いた。

刀狩令が約束した方広寺の大仏は、木造の巨大な像として完成したが、1596年の大地震で壊れた。集められた刀が実際に釘やかすがいとして使われたのかどうか、どれほどの刀が集められたのかは、よく分かっていない。大仏の釘という理由づけは、武器を差し出させるための方便だったとも言われる。

刀狩令は、日本の社会が、武器を持たない百姓の国へ向かう出発点の一つになった。それは、戦乱の世を終わらせ、平和をもたらす仕組みでもあり、同時に、百姓から自らを守る手段と力を取り上げ、武士の支配の下に置く仕組みでもあった。

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