できごと

条約改正(日英通商航海条約)

Anglo-Japanese Treaty of Commerce and Navigation
AD1894年7月16日
重要度 4
大英帝国ロシア帝国グリーンランドオスマン帝国ドイツ帝国アラビアポルトガル帝国エジプトスウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア=ハンガリー帝国フランススペイングレートブリテン及びアイルランド連合王国Algeria (FR)モロッコイタリアルーマニアブルガリアアイスランドギリシャデンマークセルビアボスニア・ヘルツェゴビナAD1894年7月16日ロンドン
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概要

領事裁判権の撤廃。幕末の不平等条約から36年、井上、大隈、青木と失敗を重ねて、陸奥宗光が日清戦争の2週間前に結んだ。関税自主権の回復は1911年、小村寿太郎まで待つ。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

陸奥宗光AD1844年8月20日–AD1897年8月24日 · 外相

本文

1858年、江戸幕府はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの五か国と修好通商条約を結んだ(安政の五か国条約)。そこには三つの不平等があった。日本で罪を犯した外国人を日本の法律で裁けず、その国の領事が裁く領事裁判権。輸入品の関税を日本が自分で決められず、相手国との協定で低く抑えられる仕組み。そして、日本が他国に与えた有利な条件を相手国も自動的に受けられるのに、その逆は無いという片務的な最恵国待遇である。明治政府はこの条約をそのまま引き継いだ。

改正の試みは早くから始まった。1871年に出発した岩倉使節団は、アメリカで改正の交渉に入ろうとして全権の委任状が無いことを指摘され、取りに戻るあいだに方針を改め、視察に専念した。1878年には外務卿寺島宗則がアメリカと関税自主権の回復に合意したが、ほかの国も同意することが条件で、イギリスとドイツが反対して効力を持たなかった。

岩倉使節団に関わる図版:Iwakura mission
岩倉使節団Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1882年からは井上馨が改正に取り組んだ。欧米と同じ文明国であることを見せるため、鹿鳴館で舞踏会が開かれたのはこの時期である。1886年10月、イギリスの貨物船ノルマントン号が紀州沖で沈み、イギリス人の船長と乗組員はボートで逃れたのに、日本人の乗客25人は全員溺れた(ノルマントン号事件)。神戸の領事による海難審判は船長の罪を問わず、世論が沸騰したあと、横浜の領事裁判でようやく禁固3か月が言い渡された。領事裁判権の害が、誰の目にも見える形になった。

井上がまとめた案は、外国人の判事を日本の裁判所に加え、外国人が日本の内地に自由に住める内地雑居を認める代わりに、領事裁判権をなくすというものだった。政府の法律顧問ボアソナードがこれに反対し、農商務大臣の谷干城は抗議して辞めた。民間からは国の恥だとの声が上がり、1887年、井上は辞任した。

ジェームズ・ブルース、第8代エルギン伯爵
ジェームズ・ブルース、第8代エルギン伯爵Wikimedia Commons Public domain

次の外務大臣大隈重信は、外国人判事を最上級の大審院にだけ置く案で国ごとの交渉を進めた。ところが1889年4月、その中身がロンドンのタイムズ紙に載って国内に伝わり、外国人判事は憲法に反するとの批判が噴き出した。10月18日、国家主義団体玄洋社の来島恒喜が外務省の門前で大隈の馬車に爆弾を投げ、大隈は右脚を失った。来島はその場で自害し、交渉は中止された。

続く青木周蔵の交渉では、イギリスが領事裁判権の撤廃に応じる姿勢を見せた。だが1891年5月、来日中のロシア皇太子ニコライが滋賀県の大津で警備の巡査津田三蔵に斬りつけられ(大津事件)、青木は責任を取って辞任した。

大日本帝国憲法発布式(和田英作画、1889年)
大日本帝国憲法発布式(和田英作画、1889年)Wikimedia Commons Eisaku Wada · Public domain

1892年、第二次伊藤博文内閣の外務大臣に陸奥宗光が就いた。陸奥は外国人判事を置かない、対等な条約を正面から求めた。追い風は国際情勢にあった。ロシアは1891年にシベリア鉄道(シベリア鉄道の開通)の建設に着手し、東アジアへの進出が目に見えてきた。ロシアと世界各地で張り合うイギリスにとって、東の端で日本と良い関係を持つ意味が大きくなっていたのである。陸奥はイギリスを最初の相手に選び、駐ドイツ公使を兼ねる青木周蔵をロンドンに送って交渉させた。

1894年7月16日、ロンドンで青木とイギリスの外相キンバリーが日英通商航海条約に調印した。領事裁判権は撤廃され、その代わりに外国人は日本のどこにでも住み、商売ができるようになる。関税は一部の品目で引き上げが認められたが、自主権の回復はまだだった。発効は5年後と決められた。日本がそのあいだに民法や商法などの法典を整えることが前提だったからである。

調印から9日後の7月25日、朝鮮の豊島沖で日本の艦隊が清の軍艦と交戦し、8月1日に両国は宣戦を布告した(日清戦争)。陸奥はのちに回想録『蹇蹇録』で、調印の知らせを受けた喜びを書き残している。キンバリーは青木に、この条約は日本にとって清の大軍を破るよりもはるかに大きな意味を持つ、と語ったと伝えられる。開戦が先になっていればイギリスは調印を見合わせたかもしれず、陸奥が戦争の前に条約をまとめることを急いだとみる見方は多い。

日清戦争に関わる図版:旅顺海军公所
日清戦争Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

日英条約に続いて、アメリカ、フランス、ドイツなど各国とも同じ内容の条約が結ばれ、1899年7月にいっせいに発効した。外国人は日本の裁判所で裁かれることになり、横浜や神戸の居留地は廃止された。残る関税自主権は、1911年、外務大臣小村寿太郎のもとで新しい通商条約を結び、ようやく取り戻した。安政の条約から36年かけて裁判の権利を、53年かけて関税の権利を取り戻したことになる。

動画(1)

146 条約改正 日本史ストーリーノート第14話Historia Mundi ムンディ先生高校の日本史を200講で通す講義の第146講「条約改正」

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