マウマウ団の反乱

概要
キクユの人びとが、奪われた土地を取り戻そうと蜂起した。イギリスは非常事態を敷き、15万人を収容所に入れた。2013年、政府が拷問を認めて補償に応じている。
場所
-1.29°N 36.82°E · ケニア
関わった人(1)
ジョモ・ケニヤッタAD1897年頃–AD1978年8月22日 · 投獄された本文
東アフリカのケニアの中央高地は、赤道の近くにありながら標高が高く、涼しくて雨に恵まれ、農地に向いていた。20世紀のはじめ、イギリスの植民地政府は、この土地を白人の入植者のために取っておいた。ホワイト・ハイランドと呼ばれるようになる。そこに住み、耕していたキクユの人びとは、狭い保留地に移されるか、入植者の農場に住み込んで、わずかな土地を借りる代わりに働く小作人になった。
第二次世界大戦の後、不満は限界に近づいた。保留地では人が増えて土地が足りなくなり、農場の小作人は締め付けを強められ、ナイロビの町には職の無い若者があふれた。戦争でイギリス軍として戦って帰ってきた兵士たちもいた。土地を返せ、自由を、という声に対して、植民地政府はほとんど何も応えなかった。

その中で、秘密の運動が広がった。参加者は、土地と自由のために戦い、秘密を守ることを誓う儀式で結ばれた。運動はマウマウと呼ばれたが、その名の由来ははっきりしない。1952年、運動の一部は、植民地の側に協力するキクユの首長や入植者を襲いはじめた。10月、新しく着任した総督は非常事態を宣言し、民族主義の指導者たちを一斉に逮捕した。
その中に、ケニア・アフリカ人同盟を率いていたジョモ・ケニヤッタがいた。ケニヤッタは、マウマウを率いたとして起訴され、北部の辺地の町で裁かれて、7年の重労働の刑を受けた。証拠は弱く、証人の一人はのちに偽証を認めた。裁判は政治的なものだったと、いまでは見られている。ケニヤッタが自由の身になったのは、刑期の後の拘禁も含めて9年近く後の1961年だった。

森に入った戦士たちは、ケニア山やアバーデア山地の森を根拠地に戦った。指導者のデダン・キマジは1956年に捕らえられ、翌年処刑された。イギリスは本国から軍を送り、爆撃機まで使って森を攻めた。1956年までに、森の戦いはほぼ鎮められた。
戦いの陰で、もっと大きな出来事が進んでいた。イギリスは、マウマウに加わった者、加わったと疑われた者を、大規模に収容所に入れた。公式には約8万人とされるが、研究者はそれよりはるかに多かったと見ている。さらに100万人ほどのキクユの人びとが、もとの家から引き離され、柵と見張りに囲まれた村に集められた。収容所では、誓いを捨てさせるための拷問が組織的に行われた。殴打、性的な暴行、飢え。1959年には、ホラの収容所で看守が被収容者11人を殴り殺す事件が起き、イギリスの議会でも厳しく追及された。

死者の数ははっきりしない。公式の記録では、反乱の側の死者は1万1000人あまりとされるが、研究者の推定はそれを大きく上回る。1000人以上が絞首刑になった。一方、殺された白人の入植者は32人で、ヨーロッパ系の死者は全体でも100人ほどだった。反乱の側に殺されたアフリカ人は2000人近く、その多くは植民地の側についたキクユの人びとで、戦いはキクユの人びとどうしの内戦の性格も帯びていた。
非常事態は1960年に解かれた。同じ年、アフリカでは多くの国が独立し(アフリカの年)、イギリスもケニアの独立を避けられないと考えるようになった。1963年、ケニアの独立が成り、出獄したケニヤッタが首相に、翌年には大統領になった。ケニヤッタは、過去を問うより国をまとめることを優先し、マウマウの戦士たちの扱いは長く曖昧にされた。
以後の記録は、長く閉ざされていた。イギリスは植民地を去るとき、都合の悪い文書の多くを焼き、一部を本国へ運んで隠した。2009年、拷問を受けた元被収容者たちがロンドンでイギリス政府を訴えた。裁判の中で、2011年、政府の倉庫に大量の植民地の文書が保管されていたことが明らかになった。2013年、イギリス政府は拷問と虐待があったことを認めて遺憾を表明し、5000人あまりの生存者に補償を払った。フランスのアルジェリア戦争と並んで、帝国の終わりの暴力が、半世紀以上たって表に出た例になる。