黄巣の乱
概要
科挙に落ちた塩の密売人が反乱軍を率い、広州で外国商人を虐殺し、長安を占領した。唐はこれで実質的に終わる。鎮圧した軍閥が次の王朝を作った。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(2)
黄巣?–AD884年 · 首領崔致遠AD857年–? · 檄を書いた本文
9世紀の後半、唐の国はすでに傾いていた。755年の安史の乱のあと、地方の軍の司令官(節度使)が力を持ち、朝廷の命令は届きにくくなった。宮中では宦官が皇帝の廃立まで左右した。財政を支えるため、朝廷は塩を国の専売にし、元の値の何倍もの値段で売った。塩は暮らしに欠かせない。値が高ければ、安く売る密売人が現れる。密売は重い罪で、捕まれば死罪もありえた。だから密売人は武装し、仲間を組んで役人と戦った。
黄巣は、山東の曹州の人で、塩の密売で財をなした家の出とされる。剣術と騎射を好み、読み書きもできた。科挙を何度も受けたが、受からなかった。「菊」を詠んだ詩が彼の作として伝わる。秋に自分の花が咲けば、ほかの花はみな枯れる、都じゅうが黄金の鎧をまとうだろう、という内容で、後の反乱を予告したかのように語られてきた。本当に彼の作かは確かでない。

870年代、華北は日照りといなごの害で飢饉が続いた。それでも役人は税を取り立てた。874年頃、同じく塩の密売人の王仙芝が反乱を起こし、875年、黄巣が数千人を率いてこれに加わった。反乱は飢えた農民を吸い込んで膨れ上がった。
878年に王仙芝が討たれると、黄巣が残った軍をまとめた。官軍が固める北を避け、長江を渡って南へ向かった。浙江から福建の山を越え、879年、南の大きな港町、広州に達した。

広州は、唐の海の玄関だった。アラビアやペルシア、インド、東南アジアから商船が来て、多くの外国人が住んでいた。黄巣はこの町を落とし、多数の住民を殺した。10世紀のアラビア語の記録は、殺された外国人をムスリム、ユダヤ教徒、キリスト教徒、ゾロアスター教徒あわせて12万人と書いている。数は誇張されている可能性が高いが、この事件で中国の港とアラブ商人の交易がしばらく途絶えたことは、同じ記録から読み取れる。絹のもとになる桑の木も切り倒された、と記録は伝える。
南方の暑さと疫病で兵を失った黄巣は、北へ引き返した。880年の暮れ、洛陽を落とし、関所を破って都の長安に入った。皇帝の僖宗は、宦官に守られて四川へ逃げた。黄巣は宮殿で皇帝の位につき、国の名を「大斉」と定めた。
長安を取った当初、反乱軍は貧しい人々に財を配ったとされる。だがまもなく略奪と殺戮が始まった。唐の高官や皇族は捕らえられて殺された。一時町を退いたあと、反乱軍を迎え入れた住民を殺したとも伝えられる。同時代の詩人韋荘は、長安の惨状を長い詩に書いた。宮中の倉は焼けて錦の灰となり、都の大通りには公卿の骨が踏み尽くされている、と。
唐の側は反撃の機会をうかがった。新羅から唐に渡って科挙に受かった若い文人崔致遠は、討伐軍の司令官の書記として、黄巣を討つ檄文を書いた。その文の力に黄巣が驚いて椅子から落ちたという話が伝わるが、これは後の伝説とされる。882年には、黄巣の部下だった朱温が唐に降った。朝廷は喜んで「全忠」という名を与えた。後の朱全忠(朱温)である。翌883年、北方のトルコ系の沙陀族の首領李克用が騎兵を率いて加わり、長安を取り返した。
長安を追われた黄巣は東へ逃れ、884年、山東の泰山の近くで追い詰められて死んだ。自ら命を絶ったとも、身内に殺されたとも伝えられる。反乱は10年に及んだ。
反乱は鎮まったが、唐は元に戻らなかった。皇帝は長安に戻ったものの、もはや各地の軍閥の上に立つ飾りにすぎなかった。反乱を鎮めた朱全忠と李克用は、そのまま最大の軍閥として争い合う。907年、朱全忠は最後の皇帝から位を奪い、自ら梁を建てた(唐の滅亡)。290年近く続いた唐はここに終わり、中国は五代十国の分裂の時代に入る。
黄巣の乱は、唐の門閥貴族の世界を壊したとも言われる。長安の名門の多くがこの乱とその後の争いで消え、宋の時代には、家柄ではなく科挙に受かった官僚が国を動かすようになる。科挙に落ちた男の反乱が、結果として、科挙で選ばれた人々の時代を準備したことになる。