ルイ・ナポレオンのクーデター
概要
第二共和政の大統領ルイ・ナポレオンは、憲法で再選できなかった。12月2日(アウステルリッツの日)、議会を解散し、反対派を逮捕し、パリの通りで数百人を撃った。人民投票で92%。翌年、皇帝ナポレオン3世。ユゴーは亡命して「小ナポレオン」と書いた。マルクスは「一度目は悲劇として、二度目は茶番として」。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
ナポレオン3世AD1808年4月20日–AD1873年1月9日 · クーデター本文
1851年12月2日の朝、パリの人々が目を覚ますと、街の壁に大統領の布告が貼られていた。「国民議会を解散する。普通選挙を回復する」。夜のうちに、軍が議会を押さえていた。
3年前の1848年革命で王政が倒れ、フランスは再び共和政になった。その年の12月、男子普通選挙で初めて行われた大統領選挙で圧勝したのが、ナポレオン・ボナパルトの甥ルイ・ナポレオン・ボナパルトである。1836年と1840年に軍の反乱を企てて失敗し、北フランスの要塞に終身禁錮で閉じ込められ、1846年に職人に変装して脱獄した。亡命先のロンドンから戻ったばかりの、政治家としてはほとんど無名の男だった。540万票を超える票の多くは、伯父の名を覚えていた農民のものだった。

憲法は、大統領の任期を4年とし、続けての再選を禁じていた。議会の多数は王政の復活を望む保守派で、大統領とはそりが合わなかった。議会は1850年、住所の要件を厳しくして、労働者を中心に300万人ほどから選挙権を奪う法を作った。1851年7月、再選を可能にする憲法の改正案は過半数の賛成を得たが、必要な4分の3には届かなかった。任期の切れる1852年が迫っていた。
ルイ・ナポレオンは、異父弟のモルニー、陸軍大臣サン・タルノー、警視総監モーパらと計画を練った。決行の日に選ばれたのは12月2日。伯父の皇帝戴冠と、アウステルリッツの勝利の記念日である。夜明け前、軍が議事堂を囲み、ティエールやカヴェニャック将軍ら有力な議員が自宅で逮捕された。抗議のために区役所に集まった200人余りの議員も捕まり、その中には『アメリカのデモクラシー』の著者トクヴィルもいた。布告は、議会が奪った普通選挙を回復し、人民投票で国民に問う、と約束していた。

12月3日、共和派の議員ボーダンは労働者街のバリケードに立ち、議員の日当を皮肉る労働者に向かって「25フランのためにどう死ぬか、見せてやろう」と叫び、撃たれて死んだ。だが1848年の6月蜂起を軍に潰された労働者たちの多くは、議会を守るために立とうとはしなかった。翌4日、大通りに出た軍が、見物していた群衆にまで発砲し、数百人が死んだ。地方では共和派の農民や職人が蜂起したが鎮められ、全国で2万6000人を超える人が逮捕され、1万人近くがアルジェリアへ送られた。
12月20日と21日の人民投票では、賛成約744万、反対約64万で、クーデターは承認された。翌年1月の新しい憲法は大統領の任期を10年とし、議会の力を大きく削った。1852年11月、帝政の復活を問う人民投票が再び大差で通り、12月2日、ルイ・ナポレオンは皇帝ナポレオン3世となった。

作家ユゴーは議員としてクーデターに抵抗し、ベルギーへ逃れた。その年のうちに書いた『小ナポレオン』で皇帝を罵り、英仏海峡の島々で19年に及ぶ亡命生活を送る。のちにユゴー『レ・ミゼラブル』を書き上げたのも、この亡命の島である。カール・マルクスは1852年の『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で、ヘーゲルの言う「世界史の大事件は二度現れる」に、「一度目は悲劇として、二度目は茶番として」と付け加えた。伯父のクーデターになぞらえた皮肉である。
それでも第二帝政は18年続いた。皇帝は鉄道と銀行を育て、オスマンのパリ改造で首都を作り替え、クリミア戦争で国の威信を高めた。普通選挙で選ばれた指導者が、普通選挙と人民投票を盾に議会を潰し、国民の大多数がそれを承認する。この形は、のちの多くの独裁の先例となった。帝政が倒れたのは、1870年のスダン(セダン)の戦いで皇帝自身が捕虜になったときである。