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Event / できごと

ルイ・ナポレオンのクーデター

Coup of 2 December 1851
AD1851年12月2日
重要度 4

概要

第二共和政の大統領ルイ・ナポレオンは、憲法で再選できなかった。12月2日(アウステルリッツの日)、議会を解散し、反対派を逮捕し、パリの通りで数百人を撃った。人民投票で92%。翌年、皇帝ナポレオン3世。ユゴーは亡命して「小ナポレオン」と書いた。マルクスは「一度目は悲劇として、二度目は茶番として」。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

関わった人(1)

ナポレオン3世AD1808年4月20日–AD1873年1月9日 · クーデター

本文

1848年12月、ルイ・ナポレオン・ボナパルトが第二共和政の大統領に選ばれた。550万票。農民が「ナポレオン」の名前に投票した。任期4年、再選禁止。1851年、憲法を改正して再選を可能にする案が議会で3分の2に届かなかった。

12月2日。アウステルリッツの日で、ナポレオンの戴冠の日。夜明け前、軍が議会を占拠し、野党の議員78人を逮捕した(ティエール、カヴェニャック将軍)。「議会を解散する。普通選挙を回復する(議会が1850年に制限していた)。人民投票を行う」と布告。パリの壁に貼られた。

12月3日、共和派の議員ボーダンがサン・タントワーヌのバリケードで「20フランの日当のために死ぬのを見せてやる」と言って撃たれた(労働者が「議員は日当25フランのために我々を死なせるのか」と言ったのに答えて)。12月4日、大通りで、軍が見物の群衆を撃った。数百人。地方で抵抗があって、2万7000人が逮捕され、1万人がアルジェリアへ流された。

12月21日、人民投票。743万対64万。92%。1852年1月、新しい憲法。大統領の任期10年、議会は弱く。11月、人民投票。皇帝。12月2日、ナポレオン3世。

ユゴーは亡命した。ブリュッセル、ジャージー、ガーンジー。19年。『小ナポレオン』(1852年)。「私は帝国が倒れる日まで帰らない」。『懲罰詩集』。マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(1852年)。冒頭。「ヘーゲルはどこかで、世界史の大事件と大人物は二度現れる、と言っている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度目は悲劇として、二度目は茶番として」。

トクヴィルは議員として逮捕され、「私は共和政の最後の日を見た」と書いた。

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