フロンドの乱

概要
ルイ14世は9歳。母アンヌとマザランが摂政。三十年戦争の税に、高等法院が抵抗し、パリがバリケードを築いた。「フロンド」は子供のパチンコ。1648〜53年。高等法院のフロンド、貴族のフロンド(コンデ大公)。王と母は夜、パリから逃げた。ルイは生涯パリを憎み、ヴェルサイユに行った。貴族は負けて、宮廷で王の靴下を持つ役になった。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(2)
マザランAD1602年7月14日–AD1661年3月9日 · 摂政ルイ14世AD1638年9月5日–AD1715年9月1日 · 逃げた本文
1643年5月、ルイ13世が死んだ。跡を継いだルイ14世は4歳8か月で、母のアンヌ・ドートリッシュが摂政となり、イタリア生まれの枢機卿マザランが宰相として実権を握った。リシュリューの後継者として、フランスを三十年戦争に深く関わらせてきた人物である。王の死の5日後、ロクロワでコンデ公(当時はアンギャン公)がスペイン軍を破ったが、戦争はなお続き、金はいくらあっても足りなかった。
マザランの政府は、思いつくかぎりの手で金を集めた。農民の直接税タイユの引き上げ、新しい官職を作っての売却、官職保有者に払う俸給の停止、パリの市壁の外に建てられた家への課税。とりわけ反発を呼んだのが、官職の世襲を認める代わりに払わせる税(ポーレット)の更新にあたって、上級裁判所の役人に4年分の俸給を放棄させようとしたことだった。

パリ高等法院は、王国の最高裁判所であると同時に、王の勅令を登録する権限を持っていた。登録を拒んだり、意見書を出して抵抗したりできる。王が自ら臨席する親裁座を開けば強制できたが、幼い王ではそれも重みに欠けた。高等法院の評定官たちは官職を金で買って世襲する「法服貴族」で、自分たちの財産と特権が脅かされていた。
1648年5月、高等法院をはじめパリの四つの上級裁判所が合同を宣言し、6月末から王宮の「サン・ルイの間」で会議を開いた。まとめられた27か条の要求には、新しい税は高等法院の承認を要すること、裁判なしの拘禁は24時間までとすること、地方で王の意向を直接実行する監察官(アンタンダン)を廃止することなどが並んだ。海峡の向こうでは、議会と国王の戦いが国王の処刑に向かっていた(清教徒革命と国王処刑)。

8月20日、コンデ公がランスでスペイン軍に大勝した。勝利で強気になったマザランは、26日、ノートルダムでの感謝の礼拝が終わった直後、民衆に人気のあった老評定官ブルセルらを逮捕させた。パリは一晩で立ち上がった。8月27日は「バリケードの日」と呼ばれ、樽(バリック)に土や石を詰めた千を超えるバリケードが街路をふさいだ。商人も職人も武器を取った。28日、宮廷は折れてブルセルを釈放した。「フロンド」とは、当時パリの子どもたちが役人の目を盗んで遊んだ投石器(ぱちんこ)のことで、反抗する側が皮肉と誇りを込めてこの名を名乗った、と伝えられる。
10月、ウェストファリア条約が結ばれ、ドイツでの戦いが終わって軍に余力ができた。1649年1月5日から6日にかけての公現祭の夜、摂政と10歳の王とマザランは、ひそかにパリの王宮(パレ・ロワイヤル)を抜け出し、郊外のサン・ジェルマン・アン・レーへ逃れた。急ごしらえの城館には家具もなく、王は藁の上で寝たという。コンデ公の軍がパリを囲み、3か月近い封鎖ののち、3月にリュエイユで和議が結ばれた。これが「高等法院のフロンド」である。

だが混乱はここからさらに複雑になった。戦功を鼻にかけて過大な見返りを求めるコンデ公を、マザランは1650年1月に弟コンティ、義弟ロングヴィル公とともに逮捕した。今度は大貴族たちが立った。コンデの姉ロングヴィル公爵夫人、のちに『箴言』を書くラ・ロシュフーコー、のちのレス枢機卿で回想録を残したゴンディらが、地方で兵を挙げ、ときにスペインとも手を結んだ。「貴族のフロンド」である。1651年2月、マザランはいったん国外に退き、コンデは釈放された。王が再び逃げ出すことを恐れたパリの民衆が夜の王宮に押し入り、寝台の王を確かめて帰っていったのはこのときで、12歳のルイは寝たふりをしてそれに耐えたと伝えられる。
1651年9月、ルイは13歳で成年を宣言された。コンデはスペインと結んで反乱を続けた。1652年7月2日、パリの東のサン・タントワーヌ門の前で、王の軍を率いるテュレンヌとコンデが戦った。追い詰められたコンデを救ったのは、王の従姉にあたる「ラ・グランド・マドモワゼル」で、彼女はバスティーユの大砲を王の軍に向けて撃たせ、コンデの軍をパリに入れた。しかし反乱者どうしの足並みはそろわず、物価の高騰と略奪に疲れたパリは秩序を望むようになる。10月21日、王はパリに戻り、翌1653年2月にはマザランも帰ってきた。最後まで抵抗したボルドーも夏に屈した。コンデはスペインに仕えて戦い続け、1659年のピレネー条約でようやく赦された。

5年に及ぶ内乱で、王権を縛ろうとする試みは失敗に終わった。高等法院も大貴族も、それぞれ自分の特権を守ることを優先して手を結びきれず、民衆はその間で飢えた。1655年、17歳のルイが狩りの装いのまま高等法院に現れ、勅令の審議をやめるよう命じたという話は、のちに「朕は国家なり」の言葉と結びつけて語られるが、この言葉を王が実際に口にした証拠はない。1661年にマザランが死ぬと、ルイは宰相を置かずに自ら政治を執った。
少年時代に味わった屈辱と恐怖は、王の生涯を決めた、とよく言われる。王は宮廷をパリから引き離し、1682年に郊外のヴェルサイユへ移した(ヴェルサイユ宮殿への移座)。大貴族は宮殿に住まわされ、王の起床や着替えに立ち会う名誉を競い合うようになった。ヴェルサイユ移転の理由をフロンドの記憶だけに求めるのは単純すぎるという研究者もいるが、反乱の芽を宮廷の儀礼の中に吸い取る仕組みが、ここから作られていったことは確かである。