イヴァン4世(雷帝)
概要
3歳で大公、8歳で母を失い、貴族が宮廷で殺し合うのを見て育った。1547年、16歳で「全ロシアのツァーリ」として初めて戴冠。前半は改革(法典、地方自治、全国会議、常備の銃兵隊)。1560年に妻アナスタシアが死んでから変わった。オプリーチニナ、ノヴゴロド、リヴォニア戦争の敗北。1581年、息子イヴァンを杖で打って殺した(レーピンの絵)。「グロズヌイ」は「恐ろしい」より「畏怖させる」。
関わったできごと(2)
カザン攻略AD1552年10月2日 · 攻めたオプリーチニナAD1565年 · 割った本文
イヴァン4世は、1530年8月25日、モスクワで、大公ヴァシーリー3世と、リトアニアの名家から嫁いだエレナ・グリンスカヤの間に生まれた。モスクワ大公国は、2世紀以上にわたってモンゴルのキプチャク汗国に貢ぎ物を納めてきたが、祖父イヴァン3世の時代にその支配を脱し、周りのロシアの諸公国を次々に併せて、大きな国になりつつあった。

1533年、父が亡くなり、イヴァンはわずか3歳で大公になった。母エレナが摂政として国を治めたが、5年後に急死した。毒を盛られたと当時から噂され、20世紀に行われた遺骨の分析では、体から多量の水銀が見つかっている。8歳で母を失ったイヴァンのまわりでは、有力な貴族、ボヤールの家々が権力を奪い合い、宮廷の中で殺し合った。幼い大公と、耳と口の不自由な弟ユーリーは、儀式のとき以外は顧みられず、のちにイヴァン自身が、自分たちは食べ物にも着る物にも事欠いたと恨みをこめて書いている。13歳のとき、イヴァンは権勢をふるっていたシュイスキー家の当主を捕らえさせ、犬番たちに引き渡して殺させた。少年はこうして、恐怖による支配を身につけていった。
1547年1月、16歳のイヴァンは、モスクワのクレムリンの大聖堂で、「全ロシアのツァーリ」として戴冠した。ツァーリはローマの皇帝カエサルに由来する称号で、モスクワの君主がこれを正式に名乗ったのは彼が初めてである。滅んだビザンツ帝国の後を継ぎ、正教の世界を守る皇帝である、という意味が込められていた。翌月、彼は貴族の娘たちの中からアナスタシア・ロマノヴナを妃に選んだ。その夏、モスクワを大火が襲い、怒った民衆が暴動を起こした。若いツァーリは、このとき心から恐れおののいたと年代記は書く。

それからの十数年は、改革の時代だった。イヴァンは、司祭シリヴェストルや、身分の低い家の出のアダーシェフら、信頼する少数の側近とともに政治を進めた。各地の身分の代表を集める全国会議を開き、1550年には新しい法典を定め、地方の役人の不正を抑えるために、地域の住民が自分たちの代表を選んで裁きや徴税にあたる仕組みを広げた。銃を持つ常備の歩兵隊、ストレリツィも作られた。1552年には、ヴォルガ川の中流のカザン・ハン国を攻め落とし(カザン攻略)、1556年には河口のアストラハンも併せた。ヴォルガ川の流れのすべてがロシアのものになり、カスピ海への道が開けた。カザンの勝利を記念してモスクワの赤の広場に建てられたのが、色とりどりの玉ねぎ形の屋根を持つ聖ワシリイ大聖堂である。
1553年、北の白海に、イギリスの船がたどり着いた。新しい航路を探していた船長チャンセラーはモスクワに招かれ、イヴァンはイギリスの商人たちに特権を与えて交易を始めた。イヴァンはのちにエリザベス1世と手紙を交わし、同盟を求め、イングランドの貴族の女性との結婚まで望んだ。バルト海への出口を求めて、1558年には西のリヴォニアに攻め込んだ。この戦争は、ポーランド・リトアニアやスウェーデンを巻き込み、25年も続くことになる。

1560年、妃アナスタシアが亡くなった。イヴァンは、彼女が毒殺されたと信じ込んだ。ここから、彼は変わった。シリヴェストルとアダーシェフは遠ざけられ、側近や貴族たちへの疑いが深まっていった。1564年、親しい友であり将軍でもあったクルプスキー公が、リトアニアへ逃げ、ツァーリの暴政を責める手紙を送ってきた。イヴァンは長い返事を書き、自分は神から権力を授かった君主であり、臣下に褒美を与えるのも罰するのも自分の自由だ、と言い放った。この往復書簡については、後世の作ではないかという説も出されたが、本物とみる研究者が多い。
1564年の暮れ、イヴァンは突然モスクワを去り、郊外の村に引きこもった。そして、貴族たちの裏切りを罰する全権を自分に認めなければ退位すると迫った。翌1565年、彼は国を二つに分け、自分が直接に治める土地「オプリーチニナ」を作った。そこに仕える親衛の者たち、オプリーチニキは黒い衣をまとい、裏切り者を嗅ぎ出す犬の頭と、それを掃き出すほうきを馬につけて駆け回った。疑われた貴族は一族ごと殺され、土地を奪われた。モスクワの府主教フィリップは、ツァーリを公然と諫めたため、職を追われ、のちに修道院で絞め殺された。1570年には、ポーランドに寝返ろうとしているという疑いで、北の古い町ノヴゴロドが襲われ、数週間にわたって住民が殺され続けた。殺された人の数は数千人とも数万人とも言われ、分かっていない。

恐怖の支配は、国を強くしなかった。1571年、南のクリミア・ハン国の軍がモスクワに攻め込み、クレムリンを除く町の大半を焼き払った。翌年、ロシアの軍はクリミアの軍を打ち破ったが、イヴァンはそのころオプリーチニナをやめ、その名を口にすることさえ禁じた。西のリヴォニアの戦争は、ポーランドの王バートリの反撃を受けて行き詰まり、1580年代のはじめに、ロシアは占領した土地のほとんどを手放して休戦した。バルト海への出口を得る夢は、100年あまりのちのピョートル大帝まで持ち越された。一方、東では、商人ストロガノフ家に雇われたコサックのイェルマークがウラル山脈を越えてシビル・ハン国を攻め(イェルマークのシビル汗国征服)、ロシアのシベリアへの進出が始まっていた。
1581年11月、イヴァンは、身ごもっていた息子の妃の装いが慎みに欠けると怒って彼女を打ち、それをかばおうとした27歳の皇太子イヴァンの頭を、鉄の先のついた杖で打った。皇太子は数日後に亡くなった。後継ぎにふさわしいと見られていた息子を、自分の手で殺したのである。19世紀の画家レーピンは、血を流す息子を抱きかかえ、目を見開いて正気を失った父の姿を描いた。この絵は、のちに二度、見る者に刃物や支柱で傷つけられている。

息子を失ってからのイヴァンは、深い悔恨に沈み、殺した人々の名を記した名簿を修道院に送って、その魂のための祈りを頼んだ。1584年3月、チェスの盤に駒を並べていたときに倒れ、53歳で亡くなった。のちに遺骨から多量の水銀が見つかり、病を治すための薬だったのか、毒を盛られたのか、議論が続いている。妃は記録によって数え方が違うが、6人とも7人とも言われる。
跡を継いだのは、病弱で政治に向かない息子フョードルだった。1598年に彼が子を残さずに亡くなると、リューリクの血を引く王家は途絶え、ロシアは偽の皇子の出現や外国の軍の侵入が続く「動乱の時代」に陥った。それが終わったのは、1613年、アナスタシアの実家の血を引くミハイル・ロマノフがツァーリに選ばれたときだった(ロマノフ朝の始まり)。

イヴァンは、ロシア語でグロズヌイと呼ばれる。雷を意味する言葉から来ていて、「恐ろしい」というより、「畏怖を呼び起こす」「威厳に満ちた」に近い響きを持つ。日本語では雷帝と訳される。20世紀、ヨシフ・スターリンは彼を、貴族を抑えて国を一つにまとめた進歩的な君主として称え、映画監督エイゼンシュテインに映画を作らせた。第1部は国の賞を受けたが、親衛の者たちの狂気を描いた第2部は上映を禁じられ、第3部は撮られないまま終わった。国を広げ、強い君主の権力を打ち立てた改革者か、恐怖で国を荒廃させた暴君か。その二つの顔は、いまも一人の人物の中で分かちがたく結びついている。