できごと

同盟市戦争

Social War
BC91年
重要度 4
フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民パルティアスキタイサーミローマサルマタイプトレマイオス朝小国群ガリア諸部族メロエケルト系の人びとヌミディアPlain-Pottery cultureセレウコス朝ダキア人マウレタニアBrushed Pottery cultureカタバーンBell-shaped burials cultureMaanナバテア王国Milograd cultureハドラマウトEastern Masurian cultureポントス王国ボスポロス王国ブレンミュエスサバア王国Pomeranian cultureBC91年ローマ
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概要

イタリアの同盟都市がローマ市民権を求め、拒まれて反乱した。3年、30万人が死んだ。ローマは戦いながら市民権を与えて終わらせた。イタリア人がローマ人になった。マリウスもスッラもポンペイウスの父も、ここで軍を持った。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

本文

紀元前2世紀のイタリア半島には、ローマのほかに多くの都市と部族があった。彼らはローマと個別に同盟を結んだ「同盟市(ソキイ)」で、ローマが戦争をするたびに兵を出す義務を負っていた。ローマの軍の半分ほどは、こうした同盟市の兵だったとも言われる。しかし、征服で得た土地や戦利品の多くはローマのものになり、ローマ市民の持つ投票の権利も、ローマの役人の横暴から身を守る法的な保護も、同盟市の人々には無かった。一緒に血を流しながら、取り分も発言権も無い。この不満が、100年近くかけて積み上がっていった。

市民権を求める動きは何度も起き、そのたびに退けられた。紀元前125年には、市民権を求めて立ち上がったラテン系の町フレゲラエが、ローマ軍に攻め落とされて破壊された。紀元前122年、改革者ガイウス・グラックスがイタリアの同盟者に市民権を広げる案を出したが、ローマ市民の反発を受け、彼自身が殺される結果に終わった(ガイウス・グラックスの改革と死)。紀元前95年には、不正に市民を名乗っている者を洗い出して市民の名簿から外す法が作られ、同盟市の怒りをいっそう強めた。

『グラックス兄弟の母コルネリア』フィリップ・フリードリヒ・フォン・ヘッチュ画(1794年) 、シュトゥットガルト州立美術館収蔵。
『グラックス兄弟の母コルネリア』フィリップ・フリードリヒ・フォン・ヘッチュ画(1794年) 、シュトゥットガルト州立美術館収蔵。Wikimedia Commons Philipp Friedrich von Hetsch / José Luiz · Public domain

紀元前91年、護民官マルクス・リウィウス・ドルススが、イタリアの同盟者に市民権を与える法案を持ち出した。元老院の保守派も、市民権の値打ちが薄まることを嫌う民衆も、これに反対した。その年の秋、ドルススは自宅で何者かに刺し殺された。犯人は分からないままだった。

同盟市は、もう待たなかった。中部イタリアのアスクルムでは、ローマの法務官が劇場で殺され、町にいたローマ人が皆殺しにされた。これを合図に、マルシ族、サムニウム人をはじめとする中部と南部の諸部族が次々に立ち上がった。彼らは「イタリア」という名の新しい国を作り、中部の町コルフィニウムを「イタリカ」と改めて首都にした。ローマにならって500人の元老院を置き、二人の執政官を選び、自分たちの貨幣を作った。その貨幣には、イタリアを表す雄牛がローマを表す狼を角で突き倒す図柄が刻まれていた。ローマに入りたいと願った人々が、ローマを倒す国を作ったのである。反乱の中心がマルシ族だったため、この戦争は「マルシ戦争」とも呼ばれる。

イタリカの鋳造したコインのモチーフ。イタリアの語源とも言われる雄牛が、ローマの象徴オオカミ(ロムルスとレムスの建国神話より)を組み伏せている。
イタリカの鋳造したコインのモチーフ。イタリアの語源とも言われる雄牛が、ローマの象徴オオカミ(ロムルスとレムスの建国神話より)を組み伏せている。Wikimedia Commons James Leigh Strachan-Davidson / Victor Duruy · Public domain

戦いは激しかった。反乱した側の兵は、長年ローマの軍で戦ってきた者たちで、装備も戦い方もローマと同じだった。紀元前90年には、ローマの執政官ルティリウス・ルプスが戦死し、ローマ軍はたびたび敗れた。老将マリウスが残った軍をまとめ、南ではスッラが頭角を現した。北の戦線では、執政官ポンペイウス・ストラボがアスクルムを囲んだ。その陣営には、17歳前後だった息子、のちのポンペイウスがいた。同じ年ごろのキケロも、この陣で兵役についていたことが知られている。

ローマは剣と並行して、法で戦争を終わらせにかかった。紀元前90年の末、執政官ルキウス・ユリウス・カエサルの名を冠した法で、反乱に加わらなかった同盟市に市民権を与えた。これで、まだ揺れていたエトルリアやウンブリアの町が反乱に向かうのを食い止めた。翌紀元前89年には、60日以内にローマの法務官のもとへ届け出たイタリアの同盟者に市民権を認める法ができ、武器を置いた者にも道が開かれた。同じ年、ポー川以北の住民には、市民権の一歩手前の権利が与えられた。

ミュンヘン・グリプトテークの『マリウス』と呼ばれる胸像(同定は議論あり)
ミュンヘン・グリプトテークの『マリウス』と呼ばれる胸像(同定は議論あり)Wikimedia Commons Public domain

紀元前89年、アスクルムは陥落し、反乱の勢いは衰えた。スッラは南でナポリ湾に近いポンペイの町を囲んだ。紀元前88年までにほとんどの戦線で戦いは終わったが、サムニウム人などの一部は抵抗を続け、カンパニアのノラの町は長くローマに屈しなかった。この戦争で命を落とした者は、古代の歴史家によれば30万人にのぼったとされる。

戦争は、反乱した側の要求をローマがほぼ受け入れる形で終わった。ポー川以南のイタリアの自由人は、ローマ市民になった。だが、平等ではなかった。新しい市民は、35ある投票区(トリブス)のうち、少数の決められた区だけに登録された。いくつの区だったかは史料によって8とも10ともいわれるが、いずれにせよ、人数がどれほど多くても投票での影響は小さく抑えられた。

19世紀に排水されたフチーノ湖の現在の様子(衛星写真)
19世紀に排水されたフチーノ湖の現在の様子(衛星写真)Wikimedia Commons ISS Crew Earth Observations experiment , Caption by M. Justin Wilkinson, NASA-JSC. · Public domain

この扱いをめぐる争いが、次の内乱の引き金になった。紀元前88年、護民官スルピキウスが新市民を35区すべてに振り分ける法案を出し、マリウスと組んだ。これに反発したスッラは、自分の軍団を率いてローマの都に攻め上った。ローマの将軍が自軍でローマを占領したのは、これが初めてだった。同盟市戦争が終わるのと入れ替わりに、マリウス派とスッラ派の内乱が始まり(スッラの独裁)、紀元前82年、スッラはローマの城門の前でサムニウム人の軍を打ち破った。

長い目で見れば、この戦争はイタリアの姿を変えた。半島の住民はローマ市民となり、ローマの軍団に加わる市民の数は大きく増えた。兵を率いる将軍が、国家よりも自分に忠実な大軍を持つ時代が、ここから本格的に始まる。半島全体がローマとなったことで、都市国家の制度のままの共和政は、これほど大きな市民の集まりを治めきれなくなっていった。アウグストゥスはのちに自分の業績録に、紀元前32年、イタリア全土が自ら進んで私に忠誠を誓った、と書いている。紀元前91年に同盟市が武器を取って作ろうとした「イタリア」は、ローマに潰されたあとで、ローマそのものとして実現したのである。

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