概要
ポワトゥーの小貴族。兄が司教を辞めて、21歳でリュソン司教。マリー・ド・メディシスの側近から、1624年、ルイ13世の宰相。枢機卿。18年。「私の最初の目的は王の威厳、第二は王国の偉大さ」。ユグノー(ラ・ロシェル)、大貴族(決闘の禁止、城の破壊、処刑)、ハプスブルク(三十年戦争でプロテスタントの側に金と兵を出した)。国家理性。アカデミー・フランセーズ(1635年)。『三銃士』の悪役。
所属
フランス王国関わったできごと(2)
三十年戦争1618年 · プロテスタントに金をラ・ロシェルの包囲AD1628年10月28日 · 囲んだ本文
1585年9月9日、パリ。アルマン・ジャン・デュ・プレシ。父フランソワはアンリ3世とアンリ4世の宮内長官で、1590年に死んで借金を残した。母シュザンヌ・ド・ラ・ポルトは弁護士の娘。5人の子。アルマンは3男。軍人になるはずだった。1602年、兄アルフォンスがリュソン司教(家に与えられていた司教職。収入源)を辞めてカルトジオ会に入り、アルマンが継ぐことに。神学を急いで学び、1607年、22歳(司教の最低年齢より若い。ローマで年齢を偽った、と伝える)でリュソン司教。「フランスで最も泥だらけの司教座」。しかし、真面目に司教をした。教区を回り、教理問答を書き、トリエント公会議の改革をフランスで最初に実行した司教の一人。
1614年、三部会(ポワトゥーの聖職者代表)。閉会の演説で、摂政マリー・ド・メディシスに気に入られた。1616年、国務卿(外務)。1617年4月、ルイ13世(15歳)が母の寵臣コンチーニを殺させた。リシュリューは母と共に失脚。アヴィニョン。「母と子の和解」を仲介して(1619〜20年)、母の側から、王の側へ。1622年、枢機卿。1624年4月、国務会議。8月、首席大臣。39歳。18年。
『政治的遺書』(死後出版)。「私は陛下に、ユグノーの党派を潰し、大貴族の傲慢を折り、全ての臣民を義務に戻し、外国におけるフランスの名を、あるべき所まで高めることを約束した」。
ユグノー。1627〜28年、ラ・ロシェル。1629年、アレスの恩赦令。大貴族。1626年、決闘の禁止(ブートヴィル伯が禁を破って、パリのロワイヤル広場で決闘して、処刑された。貴族が嘆願して、リシュリューは「この人を殺さなければ、法が死ぬ」)。1626年、シャレー侯の陰謀(王弟ガストンの周り。斬首。処刑人が見つからず、素人が34回斬った)。1630年11月11日、「欺かれた者の日」。マリー・ド・メディシス(リシュリューが自分を捨てたと憎んだ)がルイに「私か彼か」と迫り、廷臣たちはリシュリューの失脚を確信したが、ルイはヴェルサイユの狩猟小屋にリシュリューを呼んで、「私は母より国家に義務がある」。マリーは翌年、ブリュッセルへ逃げて、二度と帰らず、ケルンで死んだ。1632年、モンモランシー公(ラングドックの総督、フランス最古の家の一つ)の反乱、処刑。1642年、サン・マール(ルイの若い寵臣。スペインと密約)、処刑。地方の城の破壊(400)。地方監察官(アンタンダン)。
外。ハプスブルク(スペインと皇帝)に囲まれたフランス。1631年、スウェーデンのグスタフ・アドルフに年100万リーヴル(ベールヴァルデ条約)。プロテスタントの王に金を出す枢機卿。1635年、スペインに宣戦。フランスは三十年戦争に直接入った。コルビー(1636年、スペイン軍がパリの近くまで来た)。1640年、アラス。1642年、ルシヨン。ロクロワとウェストファリアは、彼の死後。
文化。アカデミー・フランセーズ(1635年。言葉を「純化」して辞書を作る。40人)。ソルボンヌの再建(彼の墓がそこにある)。パレ・カルディナル(後のパレ・ロワイヤル)。『ル・シッド』論争(コルネイユ)。『ガゼット』(ルノドー、1631年。政府の新聞)。猫を14匹飼った、と伝える。
病気(片頭痛、痔瘻、結核、リウマチ)。1642年12月4日、パリ。57歳。「陛下、私は、陛下の敵を全て倒したという慰めを持って死にます」。「敵を赦すか」と司祭に聞かれて、「私には国家の敵以外、敵はいなかった」。マザランを後継に指名した。
デュマの『三銃士』(1844年)。黒い法衣の陰謀家。ルイ13世より有名な、ルイ13世の宰相。